「無理をしちやあいけない。御飯の支度なんぞはお鶴にも出来る。」
 父は半ば叱るやうに、母の言葉を遮《さへぎ》りました。
「英吉! 本間さんを呼んで来い!」
 兄はもうさう云はれた時には、一散に大風の見世の外へ飛び出して居つたのでございます。
 本間さんと申す漢方医、――兄は始終藪医者などと莫迦《ばか》にした人でございますが、その医者も母を見た時には、当惑さうに、腕組みをしました。聞けば母の腫物は面疔《めんちやう》だと申すのでございますから。……もとより面疔も手術さへ出来れば、恐しい病気ではございますまい。が、当時の悲しさには手術どころの騒ぎではございません。唯|煎薬《せんやく》を飲ませたり、蛭《ひる》に血を吸はせたり、――そんなことをするだけでございます。父は毎日枕もとに、本間さんの薬を煎じました。兄も毎日十五銭づつ、蛭を買ひに出かけました。わたしも、……わたしは兄に知れないやうに、つい近所のお稲荷《いなり》様へお百度を踏みに通ひました。――さう云ふ始末でございますから、雛のことも申しては居られません。いえ、一時わたしを始め、誰もあの壁側《かべぎは》に積んだ三十ばかりの総桐の箱には眼も
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