当時の諸式にすると、ずゐぶん高価には違ひございません。
 その内に雛を手放す日はだんだん近づいて参りました。わたしは前にも申しました通り、格別それを悲しいとは思はなかつたものでございます。ところが一日一日と約束の日が迫つて来ると、何時か雛と別れるのはつらいやうに思ひ出しました。しかし如何《いか》に子供とは申せ、一旦手放すときまつた雛を手放さずにすまうとは思ひません。唯人手に渡す前に、もう一度よく見て置きたい。内裏雛《だいりびな》、五人|囃《ばや》し、左近《さこん》の桜、右近《うこん》の橘《たちばな》、雪洞《ぼんぼり》、屏風《びやうぶ》、蒔絵《まきゑ》の道具、――もう一度この土蔵の中にさう云ふ物を飾つて見たい、――と申すのが心願でございました。が、性来一徹な父は何度わたしにせがまれても、これだけのことを許しません。「一度手附けをとつたとなりやあ、何処にあらうが人様のものだ。人様のものはいぢるもんぢやあない。」――かう申すのでございます。
 するともう月末に近い、大風の吹いた日でございます。母は風邪に罹《かか》つたせゐか、それとも又|下唇《したくちびる》に出来た粟粒《あはつぶ》程の腫物《は
前へ 次へ
全26ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング