の間にか、兄の癇癖《かんぺき》の強いことも忘れてしまつたのでございます。が、まだ挙げた手を下さない中に、兄はわたしの横鬢《よこびん》へぴしやりと平手を飛ばせました。
「わからず屋!」
わたしは勿論泣き出しました。と同時に兄の上にも物差しが降つたのでございませう。兄は直《すぐ》と威丈高《ゐたけだか》に母へ食つてかかりました。母もかうなれば承知しません。低い声を震《ふる》はせながら、さんざん兄と云ひ合ひました。
さう云ふ口論の間中、わたしは唯|悔《く》やし泣きに泣き続けてゐたのでございます。丸佐の主人を送り出した父が無尽燈を持つた儘、見世からこちらへはひつて来る迄は。……いえ、わたしばかりではございません。兄も父の顔を見ると、急に黙つてしまひました。口数を利《き》かない父位、わたしはもとより当時の兄にも、恐しかつたものはございませんから。……
その晩雛は今月の末、残りの半金を受け取ると同時に、あの横浜の亜米利加人へ渡してしまふことにきまりました。何、売り価《ね》でございますか? 今になつて考へますと、莫迦莫迦《ばかばか》しいやうでございますが、確か三十円とか申して居りました。それでも
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