のでございます。それには変つたこともございません。が、ふと母の顔を見ると、母は針を動かしながら、伏し眼になつた睫毛《まつげ》の裏に涙を一ぱいためて居ります。
 お茶のお給仕をすませたわたしは母に褒めて貰ふことを楽しみに……と云ふのは大袈裟《おおげさ》にしろ、待ち設ける気もちはございました。其処《そこ》へこの涙でございませう? わたしは悲しいと思ふよりも、取りつき端《は》に困つてしまひましたから、出来るだけ母を見ないやうに、兄のゐる側へ坐りました。すると急に眼を挙げたのは兄の英吉でございます。兄はちよいとけげん[#「けげん」に傍点]さうに母とわたしとを見比べましたが、忽《たちま》ち妙な笑ひ方をすると、又横文字を読み始めました。わたしはまだこの時位、開化を鼻にかける兄を憎んだことはございません。お母さんを莫迦《ばか》にしてゐる、――一図《いちず》にさう思つたのでございます。わたしはいきなり力一ぱい、兄の背中をぶつてやりました。
「何をする?」
 兄はわたしを睨《にら》みつけました。
「ぶつてやる! ぶつてやる!」
 わたしは泣き声を出しながら、もう一度兄をぶたうとしました。その時はもう何時
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