足に其処《そこ》を歩いて居りました。それがわたしの姿を見ると「待て」と申す相図でございませう、ランプをさし挙げるのでございます。が、もうその前に徳蔵はぐるりと梶棒をまはしながら、兄の方へ車を寄せて居りました。
「御苦労だね。徳さん。何処《どこ》へ行つたんだい?」
「へえ、何、今日はお嬢さんの江戸見物です。」
 兄は苦笑を洩らしながら、人力車の側へ歩み寄りました。
「お鶴。お前、先へこのランプを持つて行つてくれ。わたしは油屋へ寄つて行くから。」
 わたしはさつきの喧嘩の手前、わざと何とも返事をせずに、唯ランプだけ受け取りました。兄はそれなり歩きかけましたが、急に又こちらへ向き変へると、人力車の泥除《どろよ》けに手をかけながら、「お鶴」と申すのでございます。
「お鶴、お前、又お父さんにお雛様のことなんぞ云ふんぢやあないぞ。」
 わたしはそれでも黙つて居りました。あんなにわたしをいぢめた癖に、又かと思つたのでございます。しかし兄は頓着せずに、小声の言葉を続けました。
「お父さんが見ちやあいけないと云ふのは手附けをとつたばかりぢやあないぞ。見りやあみんなに未練が出る、――其処も考へてゐるんだぞ
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