のに、お雛様を……お雛様を売りたがつたり、罪もないお鶴をいぢめたり、……そんなことをする筈はないぢやあないか? さうだらう? それならなぜ憎いのだか、……」
「お母さん!」
兄は突然かう叫ぶと、母の枕もとに突立つたなり、肘《ひぢ》に顔を隠しました。その後父母の死んだ時にも、涙一つ落さなかつた兄、――永年政治に奔走してから、癲狂院《てんきやうゐん》へ送られる迄、一度も弱みを見せなかつた兄、――さう云ふ兄がこの時だけは啜《すす》り泣きを始めたのでございます。これは興奮し切つた母にも、意外だつたのでございませう。母は長い溜息をしたぎり、申しかけた言葉も申さずに、もう一度枕をしてしまひました。……
かう云ふ騒きがあつてから、一時間程後でございませう。久しぶりに見世へ顔を出したのは肴屋《さかなや》の徳蔵でございます。いえ、肴屋ではございません。以前は肴屋でございましたが、今は人力車の車夫になつた、出入りの若いものでございます。この徳蔵には可笑《をか》しい話が幾つあつたかわかりません。その中でも未《いまだ》に思ひ出すのは苗字《めうじ》の話でございます。徳蔵もやはり御一新以後、苗字をつけることに
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