なかった。)芸術家肌の兄を好まなかった。たとい失明していたにしろ、按摩《あんま》にでも何《なん》にでもなれば好《い》いのに、妹の犠牲を受けているのは利己主義者であるとも極言した。辰子は姉とは反対に兄にも妹にも同情していた。姉の意見は厳粛《げんしゅく》な悲劇をわざと喜劇に翻訳する世間人の遊戯であるなどとも言った。こう言う言い合いのつのった末には二人ともきっと怒り出した。けれどもさきに怒り出すのはいつも辰子にきまっていた。広子はそこに彼女自身の優越《ゆうえつ》を感ぜずにはいられなかった。それは辰子よりも人間の心を看破《かんぱ》していると言う優越だった。あるいは辰子ほど空疎な理想に捉《とら》われていないと言う優越だった。
「姉さん。どうか今夜だけはほんとうの姉さんになって下さい。聡明《そうめい》ないつもの姉さんではなしに。」
 三度目に広子の思い出したのは妹の手紙の一行《いちぎょう》だった。その手紙は不相変《あいかわらず》白い紙を細かいペンの字に埋《うず》めていた。しかし篤介との関係になると、ほとんど何ごとも書いてなかった。ただ念入りに繰り返してあるのは彼等は互に愛し合っていると云う、簡単な
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