た時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ羞《はずか》しさを感じた。このショックは勿論|浪《なみ》のように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は半《なか》ば微笑した目にわざと妹を睨《にら》めるほかはなかった。
「いやよ。何をするの?」
「だってほんとうに嬉しいんですもの。」
辰子は円卓《えんたく》の上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を赫《かがや》かせていた。
「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには何《なん》でもして下さるのに違いないって。――実は昨日《きのう》も大村と一日《いちんち》姉さんの話をしたの。それでね、……」
「それで?」
辰子はちょっと目の中に悪戯《いたずら》っ児《こ》らしい閃《ひらめ》きを宿した。
「それでもうおしまいだわ。」
三
広子《ひろこ》は化粧道具や何かを入れた銀細具《ぎんざいく》のバッグを下げたまま、何年《なんねん》にもほとんど来たことのない表慶館《ひょうけいかん》の廊下《ろうか》を歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着
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