同時にまたNさんも左の手を離した。それから相手がよろよろする間《ま》に一生懸命に走り出した。
Nさんは息を切らせながら、(後《あと》になって気がついて見ると、風呂敷《ふろしき》に包んだ何斤《なんぎん》かの氷をしっかり胸に当てていたそうである。)野田の家《うち》の玄関へ走りこんだ。家の中は勿論ひっそりしている。Nさんは茶の間《ま》へ顔を出しながら、夕刊をひろげていた女隠居にちょっと間《ま》の悪い思いをした。
「Nさん、あなた、どうなすった?」
女隠居はNさんを見ると、ほとんど詰《なじ》るようにこう言った。それは何もけたたましい足音に驚いたためばかりではない。実際またNさんは笑ってはいても、体の震《ふる》えるのは止《と》まらなかったからである。
「いえ、今そこの坂へ来ると、いたずらをした人があったものですから、……」
「あなたに?」
「ええ、後《うしろ》からかじりついて、『姐《ねえ》さん、お金をおくれよう』って言って、……」
「ああ、そう言えばこの界隈《かいわい》には小堀《こぼり》とか云う不良少年があってね、……」
すると次の間《ま》から声をかけたのはやはり床《とこ》についている雪さ
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