父の神が、まだ聟《むこ》の神も探されぬ内に、若い都の商人《あきゅうど》と妹背《いもせ》の契《ちぎり》を結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの実方《さねかた》の中将は、この神の前を通られる時、下馬《げば》も拝《はい》もされなかったばかりに、とうとう蹴殺《けころ》されておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五塵を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、崇《あが》めろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉《えだは》じゃ。康頼《やすより》と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野《くまの》になぞらえ、あの浦は和歌浦《わかのうら》、この坂は蕪坂《かぶらざか》なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童《わらべ》たちが鹿狩《ししがり》と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無《おとなし》の滝《たき》だけは本物よりもずっと大きかった。」
「それでも都の噂では、奇瑞《きずい》があったとか申していますが。」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願《けちがん》の当日岩殿の前に、二人が法施《ほっせ》を手向《たむ》けていると、山風が木々を煽《あお》った拍子《ひょうし》に、椿《つばき》の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡《あと》が残っている。それが一つには帰雁《きがん》とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二《きがんに》となる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日|得々《とくとく》と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、帰雁《きがん》はいかにも無理じゃ。おれは余り可笑《おか》しかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの騒《さわ》ぎではない。『明日帰洛《みょうにちきらく》』と云うのもある。『清盛横死《きよもりおうし》』と云うのもある。『康頼|往生《おうじょう》』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。舞《まい》も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛《むほん》なぞに加わったのも、嗔恚《しんい》に牽《ひ》かれたのに相違ない。その嗔恚の源《みなもと》はと云えば、やはり増長慢《ぞうじょうまん》のなせる業《わざ》じゃ。平家《へいけ》は高平太《たかへいだ》以下皆悪人、こちらは大納言《だいなごん》以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚《ぼ》れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好《よ》いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経《なりつね》様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御|紛《まぎ》れになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴《ぐち》ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山《いそやま》へ※[#「蠧」の「虫」二つに代えて「木」、第4水準2−15−30]吾《つわ》を摘《つ》みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好《よ》いのか、ここには加茂川《かもがわ》の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣《そま》の地主権現《じしゅごんげん》、日吉《ひよし》の御冥護《ごみょうご》に違いない。が、おれは莫迦莫迦《ばかばか》しかったから、ここには福原《ふくはら》の獄《ひとや》もない、平相国《へいしょうこく》入道浄海《にゅうどうじょうかい》もいない、難有《ありがた》い難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、怒《おこ》られれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方《かた》ですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透《す》かして見れば、あの死んだ女房《にょうぼう》も、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑《おか》しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目《まじめ》に慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端《とたん》に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇《お》うても、挨拶《あいさつ》さえ碌《ろく》にしなかった。が、その後《のち》また遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車《ぎっしゃ》も通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼《やすより》でも、やはり居らぬよりは、いた方が好《よ》い。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の噂《うわさ》では御寂しいどころか、御歎き死《じ》にもなさり兼ねない、御容子《ごようす》だったとか申していました。」
わたしは出来るだけ細々《こまごま》と、その御噂を御話しました。琵琶法師《びわほうし》の語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯《ふ》し、悲しみ給えどかいぞなき。……猶《なお》も船の纜《ともづな》に取りつき、腰になり脇になり、丈《たけ》の及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また空《むな》しき渚《なぎさ》に泳ぎ返り、……是具《これぐ》して行けや、我《われ》乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、漕《こ》ぎ行く船のならいにて、跡は白浪《しらなみ》ばかりなり。」と云う、御狂乱《ごきょうらん》の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間《あいだ》は、手招《てまね》ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更《まんざら》嘘ではない。何度もおれは手招《てまね》ぎをした。」と、素直《すなお》に御頷《おうなず》きなさいました。
「では都の噂通り、あの松浦《まつら》の佐用姫《さよひめ》のように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる琉球人《りゅうきゅうじん》じゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、そのほかの言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを交《かわ》る交《がわ》る、饒舌《しゃべ》っていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べにはいつのまにか、土人が大勢《おおぜい》集っている。その上に高い帆柱《ほばしら》のあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍《おど》るような気がした。少将や康頼《やすより》はおれより先に、もう船の側へ駈けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇《どくじゃ》に噛《か》まれた揚句《あげく》、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に六波羅《ろくはら》から使に立った、丹左衛門尉基安《たんのさえもんのじょうもとやす》は、少将に赦免《しゃめん》の教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の中《うち》には、わずか一弾指《いちだんし》の間《あいだ》じゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や若《わか》の顔、女房《にょうぼう》の罵《ののし》る声、京極《きょうごく》の屋形《やかた》の庭の景色、天竺《てんじく》の早利即利兄弟《そうりそくりきょうだい》、震旦《しんたん》の一行阿闍梨《いちぎょうあじゃり》、本朝の実方《さねかた》の朝臣《あそん》、――とても一々数えてはいられぬ。ただ今でも可笑《おか》しいのは、その中にふと車を引いた、赤牛《あかうし》の尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、騒《さわ》がぬ容子《ようす》をつくっていた。勿論少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の下《くだ》らぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、何故《なぜ》おれ一人赦免に洩《も》れたか、その訳をいろいろ考えて見た。高平太《たかへいだ》はおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は憎《にく》むばかりか、内心おれを恐れている。おれは前《さき》の法勝寺《ほっしょうじ》の執行《しゅぎょう》じゃ。兵仗《へいじょう》の道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太はそこを恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、苦笑《くしょう》せずにはいられなかった。山門や源氏《げんじ》の侍どもに、都合《つごう》の好《い》い議論を拵《こしら》えるのは、西光法師《さいこうほうし》などの嵌《はま》り役じゃ。おれは眇《びょう》たる一|平家《へいけ》に、心を労するほど老耄《おいぼ》れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好《い》い。おれは一巻の経文《きょうもん》のほかに、鶴《つる》の前《まえ》でもいれば安堵《あんど》している。しかし浄海入道《じょうかいにゅうどう》になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味《ぶきみ》に思うているのじゃ。して見れば首でも刎《は》ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている間《あいだ》に、いよいよ船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は咎《とが》めるにも及ぶまいと、使の基安《もとやす》に頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目のほかは、何一つ知らぬ木偶《でく》の坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも好《い》い。ただ罪の深いのは少将じゃ。――」
俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた芭蕉扇《ばしょうせん》を御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。舟子《ふなご》たちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の直垂《ひたたれ》の裾《すそ》を掴《つか》んだ。すると少将は蒼《あお》い顔をしたまま、邪慳《じゃけん》にその手を刎《は》ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼《やすより》にも負けぬ大嗔恚《だいしんい》を起した。少将は人畜生《じんちくしょう》じゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子《ぶつでし》の所業《しょぎょう》とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる罵詈讒謗《ばりざんぼう》が、口を
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