俊寛
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)俊寛《しゅんかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)おれたちは皆|都人《みやこびと》じゃ
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(例)※[#「蠧」の「虫」二つに代えて「木」、第4水準2−15−30]
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俊寛《しゅんかん》云いけるは……神明《しんめい》外《ほか》になし。唯《ただ》我等が一念なり。……唯仏法を修行《しゅぎょう》して、今度《こんど》生死《しょうし》を出で給うべし。源平盛衰記《げんぺいせいすいき》
(俊寛)いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。「見せばやな我を思わぬ友もがな磯のとまやの柴《しば》の庵《いおり》を。」同上
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一
俊寛様の話ですか? 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――有王《ありおう》自身の事さえ、飛《とん》でもない嘘が伝わっているのです。現についこの間も、ある琵琶法師《びわほうし》が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂《くる》い死《じに》をなすってしまうし、わたしはその御死骸《おなきがら》を肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談《かた》らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯《しょうがい》を御送りになったとか、まことしやかに語っていました。前の琵琶法師の語った事が、跡方《あとかた》もない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはり好《い》い加減の出たらめなのです。
一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも我《われ》は顔《がお》に、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも褒《ほ》めずにはいられません。わたしはあの笹葺《ささぶき》の小屋に、俊寛様が子供たちと、御戯《おたわむ》れになる所を聞けば、思わず微笑を浮べましたし、またあの浪音の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師《びわほうし》の語った嘘は、きっと琥珀《こはく》の中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘はいつのまにか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたはおっしゃるのですか? なるほどそれもごもっともです。ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる鬼界《きかい》が島《しま》へ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。ただわたしの話の取り柄《え》は、この有王が目《ま》のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。ではどうかしばらくの間《あいだ》、御退屈でも御聞き下さい。
二
わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承《じしょう》三年五月の末、ある曇った午《ひる》過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと俊寛《しゅんかん》様に、めぐり遇《あ》う事が出来ました。しかもその場所は人気《ひとけ》のない海べ、――ただ灰色の浪《なみ》ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。
俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのは、「童《わらわ》かとすれば年老いてその貌《かお》にあらず、法師かと思えばまた髪は空《そら》ざまに生《お》い上《あが》りて白髪《はくはつ》多し。よろずの塵《ちり》や藻屑《もくず》のつきたれども打ち払わず。頸《くび》細くして腹大きに脹《は》れ、色黒うして足手細し。人にして人に非ず。」と云うのですが、これも大抵《たいてい》は作り事です。殊に頸《くび》が細かったの、腹が脹《は》れていたのと云うのは、地獄変《じごくへん》の画《え》からでも思いついたのでしょう。つまり鬼界が島と云う所から、餓鬼《がき》の形容を使ったのです。なるほどその時の俊寛様は、髪も延びて御出《おい》でになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、そのほかは昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。昔よりも一層《いっそう》丈夫そうな、頼もしい御姿《おすがた》だったのです。それが静かな潮風《しおかぜ》に、法衣《ころも》の裾を吹かせながら、浪打際《なみうちぎわ》を独り御出でになる、――見れば御手《おて》には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「僧都《そうず》の御房《ごぼう》! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王《ありおう》です!」
わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱《だ》いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生《こんじょう》では、お前にも会えぬと思っていた。」
俊寛様もしばらくの間《あいだ》は、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日《きょう》会っただけでも、仏菩薩《ぶつぼさつ》の御慈悲《ごじひ》と思うが好《よ》い。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房《ごぼう》は、――御房の御住居《おすまい》は、この界隈《かいわい》でございますか?」
「住居か? 住居はあの山の陰《かげ》じゃ。」
俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山《いそやま》を御指しになりました。
「住居と云っても、檜肌葺《ひわだぶ》きではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
わたしはそう云いかけたなり、また涙に咽《むせ》びそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心《いごころ》は悪くない住居じゃ。寝所《ねどころ》もお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが好《よ》い。」と、気軽に案内をして下さいました。
しばらくの後《のち》わたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村《ぎょそん》へはいりました。薄白い路の左右には、梢《こずえ》から垂れた榕樹《あこう》の枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺《ささぶ》きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、赤々《あかあか》と竈《かまど》の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐《なつか》しい気もちだけはして来ました。
御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人《りゅうきゅうじん》だとか、あの檻《おり》には豕《いのこ》が飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子《えぼし》さえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞはある家の前に、鶏《とり》を追っていた女の児さえ、御時宜《おじぎ》をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺《うかが》って見ました。
「成経《なりつね》様や康頼《やすより》様が、御話しになった所では、この島の土人も鬼《おに》のように、情《なさけ》を知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流人《るにん》とは云うものの、おれたちは皆|都人《みやこびと》じゃ。辺土《へんど》の民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。業平《なりひら》の朝臣《あそん》、実方《さねかた》の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、東《あずま》や陸奥《みちのく》へ下《くだ》った事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになった後《のち》でさえ、都恋しさの一念から、台盤所《だいばんどころ》の雀《すずめ》になったと、云い伝えて居《お》るではありませんか?」
「そう云う噂《うわさ》を立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界《きかい》が島《しま》の土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。これはちょうど榕樹《あこう》の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後《うしろ》を遮《さえぎ》られたせいか、紅染《べにぞ》めの単衣《ひとえ》を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優《やさ》しい会釈《えしゃく》を返されてから、
「あれが少将の北《きた》の方《かた》じゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
わたしはさすがに驚きました。
「北《きた》の方《かた》と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷《うなず》いて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の胤《たね》じゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う辺土《へんど》にも似合わない、美しい顔をして居りました。」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、頬《ほお》のふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そのために今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云わぬ。」
わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈《じょうろう》を見せてやっても、皆|醜《みにく》いと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。ただ好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代不変《ばんだいふへん》とは請合《うけあ》われぬ。その証拠には御寺《みてら》御寺の、御仏《みほとけ》の御姿《みすがた》を拝むが好《よ》い。三界六道《さんがいろくどう》の教主、十方最勝《じっぽうさいしょう》、光明無量《こうみょうむりょう》、三学無碍《さんがくむげ》、億億衆生引導《おくおくしゅじょういんどう》の能化《のうげ》、南無大慈大悲《なむだいじだいひ》釈迦牟尼如来《しゃかむににょらい》も、三十二|相《そう》八十|種好《しゅこう》の御姿《おすがた》は、時代ごとにいろいろ御変りになった。御仏《みほとけ》でももしそうとすれば、如何《いかん》かこれ美人と云う事も、時代ごとにやはり違う筈じゃ。都でもこの後《のち》五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄《なんばんほくてき》の女のように、凄《すさ》まじい顔がはやるかも知れぬ。」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。」
「所がその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈《じょうろう》の顔は、唐朝《とうちょう》の御仏《みほとけ》に活写《いきうつ》しじゃ。これは都人《みやこびと》の顔の好みが、唐土《もろこし》になずんでいる証拠《しょうこ》ではないか? すると人皇《にんおう》何代かの後《のち》には、碧眼《へきがん》の胡人《えびす》の女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ。」
わたしは自然とほほ笑《え》みました。御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教
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