訓なすったのです。「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ。」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、通《かよ》って来るような気がしました。が、御主人は榕樹《あこう》の陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまたおっしゃるのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房《にょうぼう》のやつに、毎日|小言《こごと》を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」

        三

 その夜《よ》わたしは結《ゆ》い燈台《とうだい》の光に、御主人の御飯を頂きました。本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰《おお》せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇《みつくち》の童《わらべ》も居りましたから、御招伴《ごしょうばん》に預《あずか》った訳なのです。
 御部屋は竹縁《ちくえん》をめぐらせた、僧庵《そうあん》とも云いたい拵《こしら》えです。縁先に垂れた簾《すだれ》の外には、前栽《せんざい》の竹《たか》むらがあるのですが、椿《つばき》の油を燃やした光も、さすがにそこまでは届きません。御部屋の中には皮籠《かわご》ばかりか、廚子《ずし》もあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになっていたのですが、廚子や机はこの島の土人が、不束《ふつつか》ながらも御拵《おこしら》え申した、琉球赤木《りゅうきゅうあかぎ》とかの細工《さいく》だそうです。その廚子の上には経文《きょうもん》と一しょに、阿弥陀如来《あみだにょらい》の尊像が一体、端然と金色《こんじき》に輝いていました。これは確か康頼《やすより》様の、都返りの御形見《おかたみ》だとか、伺ったように思っています。
 俊寛《しゅんかん》様は円座《わろうだ》の上に、楽々と御坐りなすったまま、いろいろ御馳走《ごちそう》を下さいました。勿論この島の事ですから、酢《す》や醤油《しょうゆ》は都ほど、味が好《よ》いとは思われません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠《なます》、煮《に》つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、ほとんど一つもなかったくらいです。御主人はわたしが呆《あき》れたように、箸《はし》もつけないのを御覧になると、上機嫌に御笑いなさりながら、こう御勧《おすす》め下さいました。
「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭梧桐《くさぎり》と云う物じゃぞ。こちらの魚《うお》も食うて見るが好《よ》い。これも名産の永良部鰻《えらぶうなぎ》じゃ。あの皿にある白地鳥《しろちどり》、――そうそう、あの焼き肉じゃ。――それも都《みやこ》などでは見た事もあるまい。白地鳥と云う物は、背の青い、腹の白い、形は鸛《こう》にそっくりの鳥じゃ。この島の土人はあの肉を食うと、湿気《しっき》を払うとか称《とな》えている。その芋《いも》も存外味は好《よ》いぞ。名前か? 名前は琉球芋《りゅうきゅういも》じゃ。梶王《かじおう》などは飯の代りに、毎日その芋を食うている。」
 梶王と云うのはさっき申した、兎唇《みつくち》の童《わらべ》の名前なのです。
「どれでも勝手に箸《はし》をつけてくれい。粥《かゆ》ばかり啜《すす》っていさえすれば、得脱《とくだつ》するように考えるのは、沙門にあり勝ちの不量見《ふりょうけん》じゃ。世尊《せそん》さえ成道《じょうどう》される時には、牧牛《ぼくぎゅう》の女難陀婆羅《むすめなんだばら》の、乳糜《にゅうび》の供養《くよう》を受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下《ひっぱらじゅか》に坐っていられたら、第六天の魔王|波旬《はじゅん》は、三人の魔女なぞを遣《つかわ》すよりも、六牙象王《ろくげのぞうおう》の味噌漬《みそづ》けだの、天竜八部《てんりゅうはちぶ》の粕漬《かすづ》けだの、天竺《てんじく》の珍味を降《ふ》らせたかも知らぬ。もっとも食足《くいた》れば淫《いん》を思うのは、我々凡夫の慣《なら》いじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も天《あ》っ晴《ぱれ》見上げた才子じゃ。が、魔王の浅間《あさま》しさには、その乳糜を献《けん》じたものが、女人《にょにん》じゃと云う事を忘れて居った。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山《せつざん》六年の苦行よりも、これが遥かに大事だったのじゃ。『取彼乳糜《かのにゅうびをとり》如意飽食《いのごとくほうしょくし》、悉皆浄尽《しっかいじょうじんす》。』――仏本行経《ぶつほんぎょうきょう》七巻の中《うち》にも、あれほど難有《ありがた》い所は沢山あるまい。――『爾時菩薩食糜《そのときぼさつびをしょくし》已訖従座而起《すでにおわりてざよりしてたつ》。安庠漸々《あんじょうにぜんぜん》向菩提樹《ぼだいじゅにむかう》。』どうじゃ。『安庠漸々《あんじょうにぜんぜん》向菩提樹《ぼだいじゅにむかう》。』女人《にょにん》を見、乳糜に飽《あ》かれた、端厳微妙《たんごんみみょう》の世尊の御姿が、目《ま》のあたりに拝《おが》まれるようではないか?」
 俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい竹縁《ちくえん》の近くへ、円座《わろうだ》を御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、都《みやこ》の便りでも聞かせて貰おう。」とわたしの話を御促《おうなが》しになりました。
 わたしは思わず眼を伏せました。兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯《おく》れたのです。しかし御主人は無頓着に、芭蕉《ばしょう》の葉の扇《おうぎ》を御手にしたまま、もう一度|御催促《ごさいそく》なさいました。
「どうじゃ、女房は相不変《あいかわらず》小言《こごと》ばかり云っているか?」
 わたしはやむを得ず俯向《うつむ》いたなり、御留守《おるす》の間《あいだ》に出来《しゅったい》した、いろいろの大変を御話しました。御主人が御捕《おとら》われなすった後《のち》、御近習《ごきんじゅ》は皆逃げ去った事、京極《きょうごく》の御屋形《おやかた》や鹿《しし》ヶ谷《たに》の御山荘も、平家《へいけ》の侍に奪われた事、北《きた》の方《かた》は去年の冬、御隠れになってしまった事、若君も重い疱瘡《もがさ》のために、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人|姫君《ひめぎみ》だけが、奈良《なら》の伯母御前《おばごぜ》の御住居《おすまい》に、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼にはいつのまにか、燈台の火影《ほかげ》が曇って来ました。軒先の簾《すだれ》、廚子《ずし》の上の御仏《みほとけ》、――それももうどうしたかわかりません。わたしはとうとう御話|半《なか》ばに、その場へ泣き沈んでしまいました。御主人は始終|黙然《もくねん》と、御耳を傾けていらしったようです。が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配そうに、法衣《ころも》の膝を御寄せになりました。
「姫はどうじゃ? 伯母御前にはようなついているか?」
「はい。御睦《おむつま》しいように存じました。」
 わたしは泣く泣く俊寛様へ、姫君の御消息《ごしょうそく》をさし上げました。それはこの島へ渡るものには、門司《もじ》や赤間《あかま》が関《せき》を船出する時、やかましい詮議《せんぎ》があるそうですから、髻《もとどり》に隠して来た御文《おふみ》なのです。御主人は早速《さっそく》燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍《はべ》り。……さても三人《みたり》一つ島に流されけるに、……などや御身《おんみ》一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許《おんもと》に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居《すまい》推《お》し量《はか》り給え。……さてもこの三とせまで、いかに御心《みこころ》強く、有《う》とも無《む》とも承わらざるらん。……とくとく御上《おんのぼ》り候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
 俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈じゃな。――おれも都には未練《みれん》はないが、姫にだけは一目会いたい。」
 わたしは御心中《ごしんちゅう》を思いやりながら、ただ涙ばかり拭《ぬぐ》っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王《ありおう》。いや、泣きたければ泣いても好《よ》い。しかしこの娑婆《しゃば》世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
 御主人は後《うしろ》の黒木《くろき》の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房《にょうぼう》も死ぬ。若《わか》も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形《やかた》や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱《くげん》を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人|衆苦《しゅうく》の大海に、没在《ぼつざい》していると考えるのは、仏弟子《ぶつでし》にも似合わぬ増長慢《ぞうじょうまん》じゃ。『増長驕慢《ぞうじょうきょうまんは》、尚非世俗白衣所宜《なおせぞくびゃくえのよろしきところにあらず》。』艱難《かんなん》の多いのに誇る心も、やはり邪業《じゃごう》には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土《ぞくさんへんど》の中《うち》にも、おれほどの苦を受けているものは、恒河沙《ごうがしゃ》の数《かず》より多いかも知れぬ。いや、人界《にんがい》に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎《たん》を洩《も》らしているのじゃ。村上《むらかみ》の御門《みかど》第七の王子、二品中務親王《にほんなかつかさしんのう》、六代の後胤《こういん》、仁和寺《にんなじ》の法印寛雅《ほういんかんが》が子、京極《きょうごく》の源大納言雅俊卿《みなもとのだいなごんまさとしきょう》の孫に生れたのは、こう云う俊寛《しゅんかん》一人じゃが、天《あめ》が下《した》には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されているぞ。――」
 俊寛様はこうおっしゃると、たちまちまた御眼《おんめ》のどこかに、陽気な御気色《みけしき》が閃《ひらめ》きました。
「一条二条の大路《おおじ》の辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも憐《あわ》れに見えるかも知れぬ。が、広い洛中洛外《らくちゅうらくがい》、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――有王《ありおう》。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。十方《じっぽう》に遍満《へんまん》した俊寛どもが、皆ただ一人流されたように、泣きつ喚《わめ》きつしていると思えば、涙の中《うち》にも笑わずにはいられぬ。有王。三界一心《さんがいいっしん》と知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶためには、まず増長慢を捨てねばならぬ。世尊《せそん》の御出世《ごしゅっせい》は我々|衆生《しゅじょう》に、笑う事を教えに来られたのじゃ。大般涅槃《だいはつねはん》の御時《おんとき》にさえ、摩訶伽葉《まかかしょう》は笑ったではないか?」
 その時はわたしもいつのまにか、頬《ほお》の上に涙が乾いていました。すると御主人は簾《すだれ》越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。」と、何事もないようにおっしゃるのです。
「わたしは都へは帰りません。」
 もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。今度はそう云う御言葉を、御恨《おうら》みに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、御側勤《おそばづと》めをするつもりです。年とった一人の
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