うどあの頃あの屋形には、鶴《つる》の前《まえ》と云う上童《うえわらわ》があった。これがいかなる天魔の化身《けしん》か、おれを捉《とら》えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降《ふ》って湧いたと云うても好《よ》い。女房に横面《よこつら》を打たれたのも、鹿《しし》ヶ谷《たに》の山荘を仮《か》したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王《ありおう》、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀叛《むほん》の宗人《むねと》にはならなかった。女人《にょにん》に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀《まれ》ではない。大幻術の摩登伽女《まとうぎゃにょ》には、阿難尊者《あなんそんじゃ》さえ迷わせられた。竜樹菩薩《りゅうじゅぼさつ》も在俗の時には、王宮の美人を偸《ぬす》むために、隠形《おんぎょう》の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦《てんじくしんたん》本朝を問わず、ただの一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人《にょにん》に愛楽を生ずるのは、五根《ごこん》の欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛《むほん》を企てるには、貪嗔癡《
前へ 次へ
全44ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング