わたしは御心中《ごしんちゅう》を思いやりながら、ただ涙ばかり拭《ぬぐ》っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王《ありおう》。いや、泣きたければ泣いても好《よ》い。しかしこの娑婆《しゃば》世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
 御主人は後《うしろ》の黒木《くろき》の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房《にょうぼう》も死ぬ。若《わか》も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形《やかた》や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱《くげん》を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人|衆苦《しゅうく》の大海に、没在《ぼつざい》していると考えるのは、仏弟子《ぶつでし》にも似合わぬ増長慢《ぞうじょうまん》じゃ。『増長驕慢《ぞうじょうきょうまんは》、尚非世俗白衣所宜《なおせぞくびゃくえのよろしきところにあらず》。』艱難《かんなん》の多いのに誇る心も、やはり邪業《じゃごう》には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土《ぞ
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