母さえ捨て、兄弟にも仔細《しさい》は話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、そのためばかりではありませんか? わたしはそうおっしゃられるほど、命が惜いように見えるでしょうか? わたしはそれほど恩義を知らぬ、人非人《にんぴにん》のように見えるでしょうか? わたしはそれほど、――」
「それほど愚かとは思わなかった。」
御主人はまた前のように、にこにこ御笑いになりました。
「お前がこの島に止《とど》まっていれば、姫の安否《あんぴ》を知らせるのは、誰がほかに勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王《かじおう》と云う童《わらべ》がいる。――と云ってもまさか妬《ねた》みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は便船のあり次第、早速《さっそく》都へ帰るが好《よ》い。その代り今夜は姫への土産《みやげ》に、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。またお前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ。」
俊寛様は悠々と、芭蕉扇《ばしょうせん》を御使いなさりながら、島住居《しまずまい》の御話をなさり始めました。軒先《のきさき》に垂れた簾《すだれ》の上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の這《は》う音が聞えています。わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。
四
「おれがこの島へ流されたのは、治承《じしょう》元年七月の始じゃ。おれは一度も成親《なりちか》の卿《きょう》と、天下なぞを計った覚えはない。それが西八条《にしはちじょう》へ籠《こ》められた後《のち》、いきなり、この島へ流されたのじゃから、始はおれも忌々《いまいま》しさの余り、飯を食う気さえ起らなかった。」
「しかし都の噂《うわさ》では、――」
わたしは御言葉を遮《さえぎ》りました。
「僧都《そうず》の御房《ごぼう》も宗人《むねと》の一人に、おなりになったとか云う事ですが、――」
「それはそう思うに違いない。成親の卿さえ宗人の一人に、おれを数えていたそうじゃから、――しかしおれは宗人ではない。浄海入道《じょうかいにゅうどう》の天下が好《よ》いか、成親の卿の天下が好いか、それさえおれにはわからぬほどじゃ。事によると成親の卿は、浄海入道よりひがん
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