蔵の墨妙の中《うち》でも、黄金《おうごん》二十|鎰《いつ》に換えたという、李営丘《りえいきゅう》の山陰泛雪図《さんいんはんせつず》でさえ、秋山図の神趣に比べると、遜色《そんしょく》のあるのを免《まぬか》れません。ですから翁は蒐集家としても、この稀代《きだい》の黄一峯《こういっぽう》が欲しくてたまらなくなったのです。
そこで潤州《じゅんしゅう》にいる間《あいだ》に、翁は人を張氏に遣《つか》わして、秋山図を譲ってもらいたいと、何度も交渉してみました。が、張氏はどうしても、翁の相談に応じません。あの顔色《かおいろ》の蒼白《あおじろ》い主人は、使に立ったものの話によると、「それほどこの画がお気に入ったのなら、喜んで先生にお貸し申そう。しかし手離すことだけは、ごめん蒙《こうむ》りたい」と言ったそうです。それがまた気を負った煙客翁には、多少|癇《かん》にも障《さわ》りました。何、今貸してもらわなくても、いつかはきっと手に入れてみせる。――翁はそう心に期《ご》しながら、とうとう秋山図を残したなり、潤州を去ることになりました。
それからまた一年ばかりの後《のち》、煙客翁は潤州へ来たついでに、張氏の家を訪れてみました。すると墻《かき》に絡《から》んだ蔦《つた》や庭に茂った草の色は、以前とさらに変りません。が、取次ぎの小厮《しょうし》に聞けば、主人は不在だということです。翁は主人に会わないにしろ、もう一度あの秋山図を見せてもらうように頼みました。しかし何度頼んでみても、小厮は主人の留守《るす》を楯《たて》に、頑《がん》として奥へ通しません。いや、しまいには門を鎖《とざ》したまま、返事さえろくにしないのです。そこで翁はやむを得ず、この荒れ果てた家のどこかに、蔵している名画を想いながら、惆悵《ちゅうちょう》と独《ひと》り帰って来ました。
ところがその後《ご》元宰《げんさい》先生に会うと、先生は翁に張氏《ちょうし》の家には、大癡の秋山図があるばかりか、沈石田《しんせきでん》の雨夜止宿図《うやししゅくず》や自寿図《じじゅず》のような傑作も、残っているということを告げました。
「前にお話するのを忘れたが、この二つは秋山図同様、※[#「糸+貴」、174−下−19]苑《かいえん》の奇観とも言うべき作です。もう一度私が手紙を書くから、ぜひこれも見ておおきなさい」
煙客翁はすぐに張氏の家へ、急の使を立てました。使は元宰先生の手札《しゅさつ》の外《ほか》にも、それらの名画を購《あがな》うべき※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]金《たくきん》を授けられていたのです。しかし張氏は前のとおり、どうしても黄一峯《こういっぽう》だけは、手離すことを肯《がえん》じません。翁はついに秋山図《しゅうざんず》には意を絶つより外《ほか》はなくなりました。
* * *
王石谷《おうせきこく》はちょいと口を噤《つぐ》んだ。
「これまでは私《わたし》が煙客先生《えんかくせんせい》から、聞かせられた話なのです」
「では煙客先生だけは、たしかに秋山図を見られたのですか?」
※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》は髯《ひげ》を撫《ぶ》しながら、念を押すように王石谷を見た。
「先生は見たと言われるのです。が、たしかに見られたのかどうか、それは誰にもわかりません」
「しかしお話の容子《ようす》では、――」
「まあ先をお聴《き》きください。しまいまでお聴きくだされば、また自《おのずか》ら私《わたし》とは違ったお考が出るかもしれません」
王石谷は今度は茶も啜《すす》らずに、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》と話を続けだした。
* * *
煙客翁が私《わたし》にこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜《せいそう》を経過した後《のち》だったのです。その時は元宰《げんさい》先生も、とうに物故《ぶっこ》していましたし、張氏《ちょうし》の家でもいつの間《ま》にか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未《いまだ》に亀玉《きぎょく》の毀《やぶ》れもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
「あの黄一峯は公孫大嬢《こうそんたいじょう》の剣器《けんき》のようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神気《しんき》が、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍翔《りょうしょう》の看《かん》はあっても、人や剣《つるぎ》が我々に見えないのと同じことですよ」
それから一月《ひとつき》ばかりの後《のち》、そろそ
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