ろ春風《しゅんぷう》が動きだしたのを潮《しお》に、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁《おう》にその話をすると、
「ではちょうど好《い》い機会だから、秋山《しゅうざん》を尋ねてご覧《らん》なさい。あれがもう一度世に出れば、画苑《がえん》の慶事《けいじ》ですよ」と言うのです。
 私ももちろん望むところですから、早速翁を煩《わずら》わせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊歴《ゆうれき》の途《と》に上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤州《じゅんしゅう》の張氏の家を訪れる暇《ひま》がありません。私は翁の書を袖《そで》にしたなり、とうとう子規《ほととぎす》が啼《な》くようになるまで、秋山《しゅうざん》を尋ねずにしまいました。
 その内にふと耳にはいったのは、貴戚《きせき》の王氏《おうし》が秋山図を手に入れたという噂《うわさ》です。そういえば私《わたし》が遊歴中、煙客翁《えんかくおう》の書を見せた人には、王氏を知っているものも交《まじ》っていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張氏《ちょうし》の家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊間《ぼうかん》の説によれば、張氏の孫は王氏《おうし》の使を受けると、伝家の彝鼎《いてい》や法書とともに、すぐさま大癡《たいち》の秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家姫《かき》を出したり、音楽を奏したり、盛な饗宴《きょうえん》を催したあげく、千金を寿《じゅ》にしたとかいうことです。私はほとんど雀躍《じゃくやく》しました。滄桑五十載《そうそうごじっさい》を閲《けみ》した後《のち》でも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看《み》ることは、鬼神《きじん》が悪《にく》むのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦慮《しょうりょ》も待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃楼《しんろう》のように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外《ほか》はありません。私は取る物も取りあえず、金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしょう》にある王氏の第宅《ていたく》へ、秋山を見に出かけて行きました。
 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹《ぼたん》が、玉欄《ぎょくらん》の外《そと》に咲き誇った、風のない初夏の午過《ひるす》ぎです。私は王氏の顔を見ると、揖《ゆう》もすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です」
 王氏も得意満面でした。
「今日《きょう》は煙客先生や廉州《れんしゅう》先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう」
 王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸《か》けさせました。水に臨んだ紅葉《こうよう》の村、谷を埋《うず》めている白雲《はくうん》の群《むれ》、それから遠近《おちこち》に側立《そばだ》った、屏風《びょうぶ》のような数峯の青《せい》、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍《おど》らせながら、じっと壁上の画を眺めました。
 この雲煙邱壑《うんえんきゅうがく》は、紛《まぎ》れもない黄一峯《こういっぽう》です、癡翁《ちおう》を除いては何人《なんぴと》も、これほど皴点《しゅんてん》を加えながら、しかも墨を活《い》かすことは――これほど設色《せっしょく》を重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄一峯《こういっぽう》です。そうしてその秋山図《しゅうざんず》よりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
 私《わたし》の周囲には王氏を始め、座にい合せた食客《しょっかく》たちが、私の顔色《かおいろ》を窺《うかが》っていました。ですから私は失望の色が、寸分《すんぶん》も顔へ露《あら》われないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
「どうです?」
 私は言下《ごんか》に答えました。
「神品です。なるほどこれでは煙客《えんかく》先生が、驚倒《きょうとう》されたのも不思議はありません」
 王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉《まゆ》の間には、いくぶんか私の賞讃《しょうさん》に、不満らしい気色《
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