秋山図
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黄大癡《こうたいち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大癡老人|黄公望《こうこうぼう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]
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「――黄大癡《こうたいち》といえば、大癡の秋山図《しゅうざんず》をご覧《らん》になったことがありますか?」
ある秋の夜《よ》、甌香閣《おうこうかく》を訪《たず》ねた王石谷《おうせきこく》は、主人の※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》と茶を啜《すす》りながら、話のついでにこんな問を発した。
「いや、見たことはありません。あなたはご覧になったのですか?」
大癡老人|黄公望《こうこうぼう》は、梅道人《ばいどうじん》や黄鶴山樵《こうかくさんしょう》とともに、元朝《げんちょう》の画《え》の神手《しんしゅ》である。※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田はこう言いながら、かつて見た沙磧図《させきず》や富春巻《ふうしゅんかん》が、髣髴《ほうふつ》と眼底に浮ぶような気がした。
「さあ、それが見たと言って好《い》いか、見ないと言って好いか、不思議なことになっているのですが、――」
「見たと言って好いか、見ないと言って好いか、――」
※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田は訝《いぶか》しそうに、王石谷の顔へ眼《め》をやった。
「模本《もほん》でもご覧になったのですか?」
「いや、模本を見たのでもないのです。とにかく真蹟《しんせき》は見たのですが、――それも私《わたし》ばかりではありません。この秋山図のことについては、煙客先生《えんかくせんせい》(王時敏《おうじびん》)や廉州先生《れんしゅうせんせい》(王鑑《おうかん》)も、それぞれ因縁《いんねん》がおありなのです」
王石谷はまた茶を啜った後《のち》、考深《かんがえぶか》そうに微笑した。
「ご退屈でなければ話しましょうか?」
「どうぞ」
※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田は銅檠《どうけい》の火を掻き立ててから、慇懃《いんぎん》に客を促した。
* * *
元宰先生《げんさいせんせい》(董其昌《とうきしょう》)が在世中《ざいせいちゅう》のことです。ある年の秋先生は、煙客翁《えんかくおう》と画論をしている内に、ふと翁に、黄一峯《こういっぽう》の秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗《そう》としていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人間《じんかん》にある限り、看尽《みつく》したと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。
「いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです」
煙客翁はそう答えながら、妙に恥《はずか》しいような気がしたそうです。
「では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏山図《かざんず》や浮嵐図《ふらんず》に比べると、また一段と出色《しゅっしょく》の作です。おそらくは大癡《たいち》老人の諸本の中でも、白眉《はくび》ではないかと思いますよ」
「そんな傑作ですか? それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです?」
「潤州《じゅんしゅう》の張氏《ちょうし》の家にあるのです。金山寺《きんざんじ》へでも行った時に、門を叩《たた》いてご覧《らん》なさい。私《わたし》が紹介状を書いて上げます」
煙客翁《えんかくおう》は先生の手簡を貰《もら》うと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄一峯《こういっぽう》の外《ほか》にも、まだいろいろ歴代の墨妙《ぼくみょう》を見ることができるに違いない。――こう思った煙客翁は、もう一刻も西園《さいえん》の書房に、じっとしていることはできないような、落着かない気もちになっていたのです。
ところが潤州へ来て観《み》ると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。墻《かき》には蔦《つた》が絡《から》んでいるし、庭には草が茂っている。その中に鶏《にわとり》や家鴨《あひる》などが、客の来たのを珍しそうに眺めているという始末ですから、さすがの翁もこんな家に、大癡の名画があるのだろうかと、一時は元宰先生《げんさいせんせい》の言葉が疑いたくなったくらいでした。しかしわざわざ尋ねて来ながら、刺《し》も通ぜずに帰るのは、もちろん本望《ほんもう》ではありません。そこで取
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