次ぎに出て来た小厮《しょうし》に、ともかくも黄一峯の秋山図を拝見したいという、遠来の意を伝えた後《のち》、思白《しはく》先生が書いてくれた紹介状を渡しました。
 すると間もなく煙客翁は、庁堂《ちょうどう》へ案内されました。ここも紫檀《したん》の椅子《いす》机が、清らかに並べてありながら、冷たい埃《ほこり》の臭《にお》いがする、――やはり荒廃《こうはい》の気が鋪甎《ほせん》の上に、漂っているとでも言いそうなのです。しかし幸い出て来た主人は、病弱らしい顔はしていても、人がらの悪い人ではありません。いや、むしろその蒼白《あおじろ》い顔や華奢《きゃしゃ》な手の恰好なぞに、貴族らしい品格が見えるような人物なのです。翁はこの主人とひととおり、初対面の挨拶《あいさつ》をすませると、早速名高い黄一峯を見せていただきたいと言いだしました。何でも翁の話では、その名画がどういう訳か、今の内に急いで見ておかないと、霧のように消えてでもしまいそうな、迷信じみた気もちがしたのだそうです。
 主人はすぐに快諾《かいだく》しました。そうしてその庁堂の素壁《そへき》へ、一幀《いっとう》の画幅《がふく》を懸《か》けさせました。
「これがお望みの秋山図です」
 煙客翁《えんかくおう》はその画《え》を一目見ると、思わず驚嘆《きょうたん》の声を洩らしました。
 画は青緑《せいりょく》の設色《せっしょく》です。渓《たに》の水が委蛇《いい》と流れたところに、村落や小橋《しょうきょう》が散在している、――その上に起した主峯の腹には、ゆうゆうとした秋の雲が、蛤粉《ごふん》の濃淡を重ねています。山は高房山《こうぼうざん》の横点《おうてん》を重ねた、新雨《しんう》を経たような翠黛《すいたい》ですが、それがまた※[#「石+朱」、第3水準1−89−1]《しゅ》を点じた、所々《しょしょ》の叢林《そうりん》の紅葉《こうよう》と映発している美しさは、ほとんど何と形容して好《い》いか、言葉の着けようさえありません。こういうとただ華麗《かれい》な画のようですが、布置《ふち》も雄大を尽していれば、筆墨《ひつぼく》も渾厚《こんこう》を極《きわ》めている、――いわば爛然《らんぜん》とした色彩の中《うち》に、空霊澹蕩《くうれいたんとう》の古趣が自《おのずか》ら漲《みなぎ》っているような画なのです。
 煙客翁はまるで放心したように、いつまでもこの画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。
「いかがです? お気に入りましたか?」
 主人は微笑を含みながら、斜《ななめ》に翁の顔を眺めました。
「神品《しんぴん》です。元宰先生《げんさいせんせい》の絶賞は、たとい及ばないことがあっても、過ぎているとは言われません。実際この図に比べれば、私《わたし》が今までに見た諸名本は、ことごとく下風《かふう》にあるくらいです」
 煙客翁はこういう間《あいだ》でも、秋山図《しゅうざんず》から眼を放しませんでした。
「そうですか? ほんとうにそんな傑作ですか?」
 翁は思わず主人のほうへ、驚いた眼を転じました。
「なぜまたそれがご不審なのです?」
「いや、別に不審という訳ではないのですが、実は、――」
 主人はほとんど処子《しょし》のように、当惑そうな顔を赤めました。が、やっと寂しい微笑を洩すと、おずおず壁上の名画を見ながら、こう言葉を続けるのです。
「実はあの画を眺めるたびに、私《わたし》は何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋山《しゅうざん》は美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか? 私以外の人間には、平凡な画図《がと》に過ぎないのではないか?――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです」
 しかしその時の煙客翁は、こういう主人の弁解にも、格別心は止めなかったそうです。それは何も秋山図に、見惚《みと》れていたばかりではありません。翁には主人が徹頭徹尾《てっとうてつび》、鑑識《かんしき》に疎《うと》いのを隠したさに、胡乱《うろん》の言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。
 翁はそれからしばらくの後《のち》、この廃宅同様な張氏《ちょうし》の家を辞しました。
 が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋山図《しゅうざんず》です。実際|大癡《たいち》の法燈《ほうとう》を継いだ煙客翁《えんかくおう》の身になって見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思ったでしょう。のみならず翁は蒐集家《しゅうしゅうか》です。しかし家
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