けしき》が見えたものです。
そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会釈《えしゃく》をする間《ま》も、嬉しそうな微笑を浮べていました。
「五十年|前《ぜん》に秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日《きょう》はまたこういう富貴《ふうき》のお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です」
煙客翁はこう言いながら、壁上の大癡《たいち》を仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容子《ようす》に、注意深い眼を注いでいました。すると果然《かぜん》翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
しばらく沈黙が続いた後《のち》、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
「どうです? 今も石谷《せきこく》先生は、たいそう褒《ほ》めてくれましたが、――」
私は正直な煙客翁が、有体《ありてい》な返事をしはしないかと、内心|冷《ひ》や冷《ひ》やしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮嚀《ていねい》に王氏へ答えました。
「これがお手にはいったのは、あなたのご運が好《よ》いのです。ご家蔵《かぞう》の諸宝《しょほう》もこの後《のち》は、一段と光彩を添えることでしょう」
しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂色《ゆうしょく》が、ますます深くなるばかりです。
その時もし廉州《れんしゅう》先生が、遅《おく》れ馳《ば》せにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
「これがお話の秋山図ですか?」
先生は無造作《むぞうさ》な挨拶《あいさつ》をしてから、黄一峯《こういっぽう》の画《え》に対しました。そうしてしばらくは黙然《もくねん》と、口髭《くちひげ》ばかり噛《か》んでいました。
「煙客先生《えんかくせんせい》は五十年|前《ぜん》にも、一度この図をご覧になったそうです」
王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州《れんしゅう》先生はまだ翁から、一度も秋山《しゅうざん》の神逸《しんいつ》を聞かされたことがなかったのです。
「どうでしょう? あなたのご鑑裁《かんさい》は」
先生は歎息《たんそく》を洩らしたぎり、不相変《あいかわらず》画を眺めていました。
「ご遠慮のないところを伺《うかが》いたいのですが、――」
王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
廉州先生はまた口を噤《つぐ》みました。
「これは?」
「これは癡翁《ちおう》第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気|淋漓《りんり》じゃありませんか。林木なぞの設色《せっしょく》も、まさに天造《てんぞう》とも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局《ふきょく》があのために、どのくらい活《い》きているかわかりません」
今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧《かえり》みると、いちいち画の佳所《かしょ》を指さしながら、盛《さかん》に感歎の声を挙《あ》げ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
私はその間《あいだ》に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬《まばた》きを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家《ちょうけ》の主人は、狐仙《こせん》か何かだったかもしれませんよ」
* * *
「秋山図の話はこれだけです」
王石谷《おうせきこく》は語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜《すす》った。
「なるほど、不思議な話です」
※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》は、さっきから銅檠《どうけい》の焔《ほのお》を眺めていた。
「その後《ご》王氏も熱心に、いろいろ尋《たず》ねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体|幻《まぼろし》でもありますまいし、――」
「しかし煙客先生《えんかくせんせい》の心の中《うち》には、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の
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