この画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。
「いかがです? お気に入りましたか?」
 主人は微笑を含みながら、斜《ななめ》に翁の顔を眺めました。
「神品《しんぴん》です。元宰先生《げんさいせんせい》の絶賞は、たとい及ばないことがあっても、過ぎているとは言われません。実際この図に比べれば、私《わたし》が今までに見た諸名本は、ことごとく下風《かふう》にあるくらいです」
 煙客翁はこういう間《あいだ》でも、秋山図《しゅうざんず》から眼を放しませんでした。
「そうですか? ほんとうにそんな傑作ですか?」
 翁は思わず主人のほうへ、驚いた眼を転じました。
「なぜまたそれがご不審なのです?」
「いや、別に不審という訳ではないのですが、実は、――」
 主人はほとんど処子《しょし》のように、当惑そうな顔を赤めました。が、やっと寂しい微笑を洩すと、おずおず壁上の名画を見ながら、こう言葉を続けるのです。
「実はあの画を眺めるたびに、私《わたし》は何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋山《しゅうざん》は美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか? 私以外の人間には、平凡な画図《がと》に過ぎないのではないか?――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです」
 しかしその時の煙客翁は、こういう主人の弁解にも、格別心は止めなかったそうです。それは何も秋山図に、見惚《みと》れていたばかりではありません。翁には主人が徹頭徹尾《てっとうてつび》、鑑識《かんしき》に疎《うと》いのを隠したさに、胡乱《うろん》の言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。
 翁はそれからしばらくの後《のち》、この廃宅同様な張氏《ちょうし》の家を辞しました。
 が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋山図《しゅうざんず》です。実際|大癡《たいち》の法燈《ほうとう》を継いだ煙客翁《えんかくおう》の身になって見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思ったでしょう。のみならず翁は蒐集家《しゅうしゅうか》です。しかし家
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