」である。保吉は食後の紅茶を前に、ぼんやり巻煙草《まきたばこ》をふかしながら、大川《おおかわ》の向うに人となった二十年|前《ぜん》の幸福を夢みつづけた。……
この数篇の小品《しょうひん》は一本の巻煙草の煙となる間に、続々と保吉の心をかすめた追憶の二三を記したものである。
二 道の上の秘密
保吉《やすきち》の四歳《しさい》の時である。彼は鶴《つる》と云う女中と一しょに大溝の往来へ通りかかった。黒ぐろと湛《たた》えた大溝《おおどぶ》の向うは後《のち》に両国《りょうごく》の停車場《ていしゃば》になった、名高い御竹倉《おたけぐら》の竹藪《たけやぶ》である。本所七不思議《ほんじょななふしぎ》の一つに当る狸《たぬき》の莫迦囃子《ばかばやし》と云うものはこの藪の中から聞えるらしい。少くとも保吉は誰に聞いたのか、狸の莫迦囃子の聞えるのは勿論、おいてき堀や片葉《かたは》の葭《よし》も御竹倉にあるものと確信していた。が、今はこの気味の悪い藪も狸などはどこかへ逐《お》い払ったように、日の光の澄《す》んだ風の中に黄ばんだ竹の秀《ほ》をそよがせている。
「坊ちゃん、これを御存知ですか?」
つ
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