彼は悲しさにも増した口惜《くや》しさに一ぱいになったまま、さらにまた震《ふる》え泣きに泣きはじめた。しかしもう意気地《いくじ》のない彼には誰一人好意を示すものはいない。のみならず彼等は口々に川島の言葉を真似《まね》しながら、ちりぢりにどこかへ駈《か》け出して行った。
「やあい、お母さんって泣いていやがる!」
保吉は次第に遠ざかる彼等の声を憎み憎み、いつかまた彼の足もとへ下りた無数の鳩にも目をやらずに、永い間|啜《すす》り泣きをやめなかった。
保吉は爾来《じらい》この「お母さん」を全然川島の発明した※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》とばかり信じていた。ところがちょうど三年以前、上海《シャンハイ》へ上陸すると同時に、東京から持ち越したインフルエンザのためにある病院へはいることになった。熱は病院へはいった後《のち》も容易に彼を離れなかった。彼は白い寝台《しんだい》の上に朦朧《もうろう》とした目を開いたまま、蒙古《もうこ》の春を運んで来る黄沙《こうさ》の凄《すさま》じさを眺めたりしていた。するとある蒸暑《むしあつ》い午後、小説を読んでいた看護婦は突然|椅子《いす》を離れると
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