ではない。ただ保吉の空想に映じた回向院《えこういん》の激戦の光景である。けれども彼は落葉だけ明るい、もの寂《さ》びた境内《けいだい》を駆《か》けまわりながら、ありありと硝煙の匂《におい》を感じ、飛び違う砲火の閃《ひらめ》きを感じた。いや、ある時は大地の底に爆発の機会を待っている地雷火の心さえ感じたものである。こう云う溌剌《はつらつ》とした空想は中学校へはいった後《のち》、いつのまにか彼を見離してしまった。今日《こんにち》の彼は戦《いくさ》ごっこの中に旅順港《りょじゅんこう》の激戦を見ないばかりではない、むしろ旅順港の激戦の中にも戦ごっこを見ているばかりである。しかし追憶《ついおく》は幸いにも少年時代へ彼を呼び返した。彼はまず何を措《お》いても、当時の空想を再びする無上の快楽を捉えなければならぬ。――
 硝煙は見る見る山をなし、敵の砲弾は雨のように彼等のまわりへ爆発した。保吉はその中を一文字《いちもんじ》に敵の大将へ飛びかかった。敵の大将は身を躱《かわ》すと、一散に陣地へ逃げこもうとした。保吉はそれへ追いすがった。と思うと石に躓《つまず》いたのか、仰向《あおむ》けにそこへ転《ころ》んでし
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