。
保吉はひっそりした据え風呂の中に茫然と大きい目を開《ひら》いた。同時に従来不可解だった死と云うものを発見した。――死とはつまり父の姿の永久に消えてしまうことである!
四 海
保吉《やすきち》の海を知ったのは五歳か六歳の頃である。もっとも海とは云うものの、万里《ばんり》の大洋を知ったのではない。ただ大森《おおもり》の海岸に狭苦《せまくる》しい東京湾《とうきょうわん》を知ったのである。しかし狭苦しい東京湾も当時の保吉には驚異だった。奈良朝の歌人は海に寄せる恋を「大船《おおふね》の香取《かとり》の海に碇《いかり》おろしいかなる人かもの思わざらん」と歌った。保吉は勿論恋も知らず、万葉集の歌などと云うものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光りに煙《けむ》った海の何か妙にもの悲しい神秘を感じさせたのは事実である。彼は海へ張り出した葭簾張《よしずば》りの茶屋の手すりにいつまでも海を眺めつづけた。海は白じろと赫《かがや》いた帆かけ船を何艘《なんそう》も浮かべている。長い煙を空へ引いた二本マストの汽船も浮かべている。翼の長い一群《いちぐん》の鴎《かもめ》はちょうど猫のように啼き
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