とかと声をかけた。父は海綿《かいめん》を使ったまま、「よし、今行く」と返事をした。それからまた保吉へ顔を見せながら、「お前はまだはいってお出《いで》。今お母さんがはいるから」と云った。勿論父のいないことは格別帆前船の処女航海に差支《さしつか》えを生ずる次第でもない。保吉はちょっと父を見たぎり、「うん」と素直《すなお》に返事をした。
父は体を拭いてしまうと、濡れ手拭を肩にかけながら、「どっこいしょ」と太い腰を起した。保吉はそれでも頓着せずに帆前船の三角帆を直していた。が、硝子《ガラス》障子のあいた音にもう一度ふと目を挙げると、父はちょうど湯気《ゆげ》の中に裸《はだか》の背中を見せたまま、風呂場の向うへ出る所だった。父の髪《かみ》はまだ白い訣《わけ》ではない。腰も若いもののようにまっ直《すぐ》である。しかしそう云う後ろ姿はなぜか四歳《しさい》の保吉の心にしみじみと寂しさを感じさせた。「お父さん」――一瞬間帆前船を忘れた彼は思わずそう呼びかけようとした。けれども二度目の硝子戸の音は静かに父の姿を隠してしまった。あとにはただ湯の匂《におい》に満ちた薄明《うすあか》りの広がっているばかりである
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