間、ちょうどひとかどの哲学者のように死と云う問題を考えつづけた。死は不可解そのものである。殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも関《かかわ》らず死んだ蟻である。このくらい秘密の魅力《みりょく》に富んだ、掴《つかま》え所のない問題はない。保吉は死を考える度に、ある日|回向院《えこういん》の境内《けいだい》に見かけた二匹の犬を思い出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔を向けたまま、一匹のようにじっとしていた。のみならず妙に厳粛《げんしゅく》だった。死と云うものもあの二匹の犬と何か似た所を持っているのかも知れない。……
 するとある火ともし頃である。保吉は役所から帰った父と、薄暗い風呂《ふろ》にはいっていた。はいっていたとは云うものの、体などを洗っていたのではない。ただ胸ほどある据《す》え風呂の中に恐る恐る立ったなり、白い三角帆《さんかくほ》を張った帆前船《ほまえせん》の処女航海をさせていたのである。そこへ客か何か来たのであろう、鶴《つる》よりも年上の女中が一人、湯気《ゆげ》の立ちこめた硝子障子《ガラスしょうじ》をあけると、石鹸《せっけん》だらけになっていた父へ旦那様《だんなさま》何
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