》の盞《さかずき》を手にしたまま、何かの拍子にこう云った。
「とうとうお目出度《めでたく》なったそうだな、ほら、あの槙町《まきちょう》の二弦琴《にげんきん》の師匠《ししょう》も。……」
 ランプの光は鮮《あざや》かに黒塗りの膳《ぜん》の上を照らしている。こう云う時の膳の上ほど、美しい色彩に溢《あふ》れたものはない。保吉《やすきち》は未《いま》だに食物《しょくもつ》の色彩――※[#「魚+粫のつくり」、第3水準1−94−40]脯《からすみ》だの焼海苔《やきのり》だの酢蠣《すがき》だの辣薑《らっきょう》だのの色彩を愛している。もっとも当時愛したのはそれほど品《ひん》の好《い》い色彩ではない。むしろ悪《あく》どい刺戟《しげき》に富んだ、生《なま》なましい色彩ばかりである。彼はその晩も膳の前に、一掴《ひとつか》みの海髪《うご》を枕にしためじ[#「めじ」に傍点]の刺身《さしみ》を見守っていた。すると微醺《びくん》を帯びた父は彼の芸術的感興をも物質的欲望と解釈したのであろう。象牙《ぞうげ》の箸《はし》をとり上げたと思うと、わざと彼の鼻の上へ醤油の匂《におい》のする刺身《さしみ》を出した。彼は勿論一口
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