た。空には柳の枝の間《あいだ》に、細い雲母雲《きららぐも》が吹かれていた。中佐はほっと息を吐《は》いた。
「春だね、いくら満洲《まんしゅう》でも。」
「内地はもう袷《あわせ》を着ているだろう。」
中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして――かすかに憂鬱になった。
「向うに杏《あんず》が咲いている。」
穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇《むらが》った、赤い花の塊りを指した。Ecoute−moi, Madeline………――中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。
四 父と子と
大正七年十月のある夜、中村《なかむら》少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣《くわ》えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。
二十年余りの閑日月《かんじつげつ》は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿《は》げ上《あが》った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色《けしき》があった。少将は椅子《いす》の背《せ》に靠《もた》れたまま、ゆっくり周囲を眺め
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