でしょう。――僕と同じ文科の学生です。河合の追悼会《ついとうかい》があったものですから、今帰ったばかりなのです。」
少将はちょいと頷《うなず》いた後《のち》、濃いハヴァナの煙を吐いた。それからやっと大儀《たいぎ》そうに、肝腎《かんじん》の用向きを話し始めた。
「この壁にある画《え》だね、これはお前が懸け換えたのかい?」
「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝《けさ》僕が懸け換えたのです。いけませんか?」
「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置きたい、と思う。」
「この中へですか?」
青年は思わず微笑した。
「この中へ懸けてはいけないかね?」
「いけないと云う事もありませんが、――しかしそれは可笑《おか》しいでしょう。」
「肖像画《しょうぞうが》はあすこにもあるようじゃないか?」
少将は炉《ろ》の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳かのレムブラントが、悠々と少将を見下していた。
「あれは別です。N将軍と一しょにはなりません。」
「そうか? じゃ仕方がない。」
少将は容易に断念した。が、また葉巻の煙を吐きながら、静かにこう話を続けた。
「お前は、――と云うよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思っているね?」
「別にどうも思ってはいません。まあ、偉い軍人でしょう。」
青年は老いた父の眼に、晩酌《ばんしゃく》の酔《よい》を感じていた。
「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者《ちょうじゃ》らしい、人懐《ひとなつ》こい性格も持っていられた。……」
少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話《いつわ》を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野《なすの》の別荘に、将軍を訪れた時の事だった。その日別荘へ行って見ると、将軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけになった、――そう云う別荘番の話だった。少将は案内を知っていたから、早速《さっそく》裏山へ出かける事にした。すると二三町行った所に、綿服を纏《まと》った将軍が、夫人と一しょに佇《たたず》んでいた。少将はこの老夫妻と、しばらくの間《あいだ》立ち話をした。が、将軍はいつまでたっても、そこを立ち去ろうとしなかった。「何かここに用でもおありですか?」――こう少将が尋ねると、将軍は急に笑い出した。「実はね、今|妻《さい》が憚《はばか》りへ行きたいと云うものだから、わしたちについて来た学生たちが、場
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