た。空には柳の枝の間《あいだ》に、細い雲母雲《きららぐも》が吹かれていた。中佐はほっと息を吐《は》いた。
「春だね、いくら満洲《まんしゅう》でも。」
「内地はもう袷《あわせ》を着ているだろう。」
中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして――かすかに憂鬱になった。
「向うに杏《あんず》が咲いている。」
穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇《むらが》った、赤い花の塊りを指した。Ecoute−moi, Madeline………――中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。
四 父と子と
大正七年十月のある夜、中村《なかむら》少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣《くわ》えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。
二十年余りの閑日月《かんじつげつ》は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿《は》げ上《あが》った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色《けしき》があった。少将は椅子《いす》の背《せ》に靠《もた》れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、――急にため息を洩らした。
室の壁にはどこを見ても、西洋の画《え》の複製らしい、写真版の額《がく》が懸《か》けてあった。そのある物は窓に倚《よ》った、寂しい少女の肖像《しょうぞう》だった。またある物は糸杉の間《あいだ》に、太陽の見える風景だった。それらは皆電燈の光に、この古めかしい応接室へ、何か妙に薄ら寒い、厳粛《げんしゅく》な空気を与えていた。が、その空気はどう云う訣《わけ》か、少将には愉快でないらしかった。
無言《むごん》の何分かが過ぎ去った後《のち》、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。
「おはいり。」
その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。
「何か御用ですか? お父さん。」
「うん。まあ、そこにおかけ。」
青年は素直《すなお》に腰を下《おろ》した。
「何です?」
少将は返事をするために、青年の胸の金鈕《きんボタン》へ、不審《ふしん》らしい眼をやった。
「今日《きょう》は?」
「今日は河合《かわい》の――お父さんは御存知ない
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