ともった行燈《あんどう》が置いてあった。そこに頬骨の高い年増《としま》が一人、猪首《いくび》の町人と酒を飲んでいた。年増は時々|金切声《かなきりごえ》に、「若旦那《わかだんな》」と相手の町人を呼んだ。そうして、――穂積中佐は舞台を見ずに、彼自身の記憶に浸《ひた》り出した。柳盛座《りゅうせいざ》の二階の手すりには、十二三の少年が倚《よ》りかかっている。舞台には桜の釣り枝がある。火影《ほかげ》の多い町の書割《かきわり》がある。その中に二銭《にせん》の団洲《だんしゅう》と呼ばれた、和光《わこう》の不破伴左衛門《ふわばんざえもん》が、編笠《あみがさ》を片手に見得《みえ》をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……
「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」
将軍の声は爆弾のように、中佐の追憶を打ち砕《くだ》いた。中佐は舞台へ眼を返した。舞台にはすでに狼狽《ろうばい》した少尉が、幕と共に走っていた。その間《あいだ》にちらりと屏風の上へ、男女の帯の懸かっているのが見えた。
中佐は思わず苦笑《くしょう》した。「余興掛も気が利《き》かなすぎる。男女の相撲さえ禁じている将軍が、濡《ぬ》れ場《ば》を黙って見ている筈がない。」――そんな事を考えながら、叱声《しっせい》の起った席を見ると、将軍はまだ不機嫌そうに、余興掛の一等主計《いっとうしゅけい》と、何か問答を重ねていた。
その時ふと中佐の耳は、口の悪い亜米利加《アメリカ》の武官が、隣に坐った仏蘭西《フランス》の武官へ、こう話しかける声を捉《とら》えた。
「将軍Nも楽《らく》じゃない。軍司令官兼|検閲官《けんえつかん》だから、――」
やっと三幕目《みまくめ》が始まったのは、それから十分の後《のち》だった。今度は木がはいっても、兵卒たちは拍手を送らなかった。
「可哀《かわい》そうに。監視《かんし》されながら、芝居を見ているようだ。」――穂積中佐は憐むように、ほとんど大きな話声も立てない、カアキイ服の群《むれ》を見渡した。
三幕目の舞台は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあった。それはどこから伐《き》って来たか、生々《なまなま》しい実際の葉柳だった。そこに警部らしい髯《ひげ》だらけの男が、年の若い巡査をいじめていた。穂積《ほづみ》中佐は番附の上へ、不審そうに眼を落した。すると番附
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