ムの一戦に大勝を博したナポレオンのように。……
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岩とも泥とも見当《けんとう》のつかぬ、灰色をなすった断崖《だんがい》は高だかと曇天に聳えている。そのまた断崖のてっぺんは草とも木とも見当のつかぬ、白茶《しらちゃ》けた緑を煙らせている。保吉はこの断崖の下をぼんやり一人《ひとり》歩いて行った。三十分汽車に揺《ゆ》られた後《のち》、さらにまた三十分足らず砂埃《すなほこ》りの道を歩かせられるのは勿論永久の苦痛である。苦痛?――いや、苦痛ではない。惰力《だりょく》の法則はいつのまにか苦痛という意識さえ奪ってしまった。彼は毎日無感激にこの退屈そのものに似た断崖の下を歩いている。地獄の業苦《ごうく》を受くることは必ずしも我々の悲劇ではない。我々の悲劇は地獄の業苦を業苦と感ぜずにいることである。彼はこう云う悲劇の外へ一週に一度ずつ躍《おど》り出していた。が、ズボンのポケットの底に六十何銭しか残っていない今は、……
「お早う。」
突然声をかけたのは首席教官の粟野《あわの》さんである。粟野さんは五十を越しているであろう。色の黒い、近眼
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