鏡《きんがんきょう》をかけた、幾分《いくぶん》か猫背《ねこぜ》の紳士《しんし》である。由来《ゆらい》保吉の勤めている海軍の学校の教官は時代を超越した紺《こん》サアジ以外に、いかなる背広をも着たことはない。粟野さんもやはり紺サアジの背広に新らしい麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶっている。保吉は丁寧にお時儀《じぎ》をした。
「お早うございます。」
「大分《だいぶ》蒸《む》すようになりましたね。」
「お嬢さんはいかがですか? 御病気のように聞きましたが、……」
「難有《ありがと》う。やっと昨日《きのう》退院しました。」
 粟野さんの前に出た保吉は別人のように慇懃《いんぎん》である。これは少しも虚礼ではない。彼は粟野さんの語学的天才に頗《すこぶ》る敬意を抱《いだ》いている。行年《ぎょうねん》六十の粟野さんは羅甸《ラテン》語のシイザアを教えていた。今も勿論|英吉利《イギリス》語を始め、いろいろの近代語に通じている。保吉はいつか粟野さんの Asino ――ではなかったかも知れない、が、とにかくそんな名前の伊太利《イタリイ》語の本を読んでいるのに少からず驚嘆《きょうたん》した。しかし敬意を抱いているのは
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