》の花を映《うつ》している。……しかしふと指に触れたズボンの底の六十何銭かはたちまちその夢を打ち壊《こわ》した。今日《きょう》はまだやっと十何日かである。二十八日の月給日に堀川教官殿と書いた西洋封筒《せいようふうとう》を受け取るのにはかれこれ二週間も待たなければならぬ。が、彼の楽しみにしていた東京へ出かける日曜日はもうあしたに迫っている。彼はあしたは長谷《はせ》や大友《おおとも》と晩飯を共にするつもりだった。こちらにないスコットの油画具《あぶらえのぐ》やカンヴァスも仕入《しい》れるつもりだった。フロイライン・メルレンドルフの演奏会へも顔を出すつもりだった。けれども六十何銭かの前には東京|行《ゆき》それ自身さえあきらめなければならぬ。
「明日《あす》よ、ではさようなら」である。
 保吉は憂鬱を紛《まぎ》らせるために巻煙草《まきたばこ》を一本|啣《くわ》えようとした。が、手をやったポケットの中には生憎《あいにく》一本も残っていない。彼はいよいよ悪意のある運命の微笑《びしょう》を感じながら、待合室の外に足を止《と》めた物売りの前へ歩み寄った。緑いろの鳥打帽《とりうちぼう》をかぶった、薄い痘痕
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