しかし本を読まなければならぬ。埃及《エジプト》の煙草《たばこ》も吸わなければならぬ。音楽会の椅子《いす》にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ。友だち以外の女人《にょにん》の顔も、――とにかく一週に一度ずつは必ず東京へ行《ゆ》かなければならぬ。こう云う生活欲に駆《か》られていた彼は勿論原稿料の前借《ぜんしゃく》をしたり、父母兄弟に世話を焼かせたりした。それでもまだ金の足《た》りない時には赤い色硝子《いろガラス》の軒燈《けんとう》を出した、人出入の少い土蔵造《どぞうづく》りの家《うち》へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟とも喧嘩《けんか》をした今は、――いや、今はそれどころではない。この紀元節《きげんせつ》に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。………
 保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢《こうたく》の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴《ほうふつ》した。シルク・ハットは円筒《えんとう》の胴に土蔵の窓明りを仄《ほの》めかせている。そのまた胴は窓の外《そと》に咲いた泰山木《たいざんぼく
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