《さっぷうけい》な書棚《しょだな》の向うに全然姿を隠している。しかし薄蒼《うすあお》いパイプの煙は粟野さんの存在を証明するように、白壁《しらかべ》を背にした空間の中へ時々かすかに立ち昇《のぼ》っている。窓の外の風景もやはり静かさには変りはない。曇天《どんてん》にこぞった若葉の梢《こずえ》、その向うに続いた鼠色の校舎、そのまた向うに薄光《うすひか》った入江、――何もかもどこか汗ばんだ、もの憂《う》い静かさに沈んでいる。
保吉は巻煙草を思い出した。が、たちまち物売りに竹箆返《しっぺいがえ》しを食わせた後《のち》、すっかり巻煙草を買うことを忘れていたのを発見した。巻煙草も吸われないのは悲惨《ひさん》である。悲惨?――あるいは悲惨ではないかも知れない。衣食の計に追われている窮民《きゅうみん》の苦痛に比《くら》べれば、六十何銭かを歎ずるのは勿論|贅沢《ぜいたく》の沙汰《さた》であろう。けれども苦痛そのものは窮民も彼も同じことである。いや、むしろ窮民よりも鋭い神経を持っている彼は一層《いっそう》の苦痛をなめなければならぬ。窮民は、――必ずしも窮民と言わずとも好《い》い。語学的天才たる粟野さんはゴ
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