りつ》に価《あたい》する凄《すさま》じさである。保吉は麦藁帽《むぎわらぼう》の庇《ひさし》の下にこう云う景色を眺めながら、彼自身意識して誇張した売文の悲劇に感激した。同時に平生尊重する痩《や》せ我慢《がまん》も何も忘れたように、今も片手を突こんでいたズボンの中味を吹聴《ふいちょう》した。
「実は東京へ行きたいんですが六十何銭しかない始末《しまつ》なんです。」
―――――――――――――――――――――――――
保吉は教官室の机の前に教科書の下調《したしら》べにとりかかった。が、ジャットランドの海戦記事などはふだんでも愉快に読めるものではない。殊に今日《きょう》は東京へ行きたさに業《ごう》を煮《に》やしている時である。彼は英語の海語辞典《かいごじてん》を片手に一|頁《ペエジ》ばかり目を通した後《のち》、憂鬱にまたポケットの底の六十何銭かを考えはじめた。……
十一時半の教官室はひっそりと人音《ひとおと》を絶やしている。十人ばかりの教官も粟野さん一人を残したまま、ことごとく授業に出て行ってしまった。粟野さんは彼の机の向うに、――と云っても二人の机を隔《へだ》てた、殺風景
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング