来《せいらい》の詩的情熱は見る見るまたそれを誇張し出した。日本の戯曲家《ぎきょくか》や小説家は、――殊に彼の友だちは惨憺《さんたん》たる窮乏《きゅうぼう》に安んじなければならぬ。長谷正雄《はせまさお》は酒の代りに電気ブランを飲んでいる。大友雄吉《おおともゆうきち》も妻子《さいし》と一しょに三畳の二階を借りている。松本法城《まつもとほうじょう》も――松本法城は結婚以来少し楽《らく》に暮らしているかも知れない。しかしついこの間まではやはり焼鳥屋へ出入《しゅつにゅう》していた。……
「Appearances are deceitful ですかね。」
粟野さんは常談とも真面目《まじめ》ともつかずに、こう煮《に》え切らない相槌《あいづち》を打った。
道の両側《りょうがわ》はいつのまにか、ごみごみした町家《ちょうか》に変っている。塵埃《ちりぼこ》りにまみれた飾《かざ》り窓と広告の剥《は》げた電柱と、――市と云う名前はついていても、都会らしい色彩はどこにも見えない。殊に大きいギャントリイ・クレエンの瓦屋根の空に横《よこた》わっていたり、そのまた空に黒い煙や白い蒸気の立っていたりするのは戦慄《せんりつ》に価《あたい》する凄《すさま》じさである。保吉は麦藁帽《むぎわらぼう》の庇《ひさし》の下にこう云う景色を眺めながら、彼自身意識して誇張した売文の悲劇に感激した。同時に平生尊重する痩《や》せ我慢《がまん》も何も忘れたように、今も片手を突こんでいたズボンの中味を吹聴《ふいちょう》した。
「実は東京へ行きたいんですが六十何銭しかない始末《しまつ》なんです。」
―――――――――――――――――――――――――
保吉は教官室の机の前に教科書の下調《したしら》べにとりかかった。が、ジャットランドの海戦記事などはふだんでも愉快に読めるものではない。殊に今日《きょう》は東京へ行きたさに業《ごう》を煮《に》やしている時である。彼は英語の海語辞典《かいごじてん》を片手に一|頁《ペエジ》ばかり目を通した後《のち》、憂鬱にまたポケットの底の六十何銭かを考えはじめた。……
十一時半の教官室はひっそりと人音《ひとおと》を絶やしている。十人ばかりの教官も粟野さん一人を残したまま、ことごとく授業に出て行ってしまった。粟野さんは彼の机の向うに、――と云っても二人の机を隔《へだ》てた、殺風景《さっぷうけい》な書棚《しょだな》の向うに全然姿を隠している。しかし薄蒼《うすあお》いパイプの煙は粟野さんの存在を証明するように、白壁《しらかべ》を背にした空間の中へ時々かすかに立ち昇《のぼ》っている。窓の外の風景もやはり静かさには変りはない。曇天《どんてん》にこぞった若葉の梢《こずえ》、その向うに続いた鼠色の校舎、そのまた向うに薄光《うすひか》った入江、――何もかもどこか汗ばんだ、もの憂《う》い静かさに沈んでいる。
保吉は巻煙草を思い出した。が、たちまち物売りに竹箆返《しっぺいがえ》しを食わせた後《のち》、すっかり巻煙草を買うことを忘れていたのを発見した。巻煙草も吸われないのは悲惨《ひさん》である。悲惨?――あるいは悲惨ではないかも知れない。衣食の計に追われている窮民《きゅうみん》の苦痛に比《くら》べれば、六十何銭かを歎ずるのは勿論|贅沢《ぜいたく》の沙汰《さた》であろう。けれども苦痛そのものは窮民も彼も同じことである。いや、むしろ窮民よりも鋭い神経を持っている彼は一層《いっそう》の苦痛をなめなければならぬ。窮民は、――必ずしも窮民と言わずとも好《い》い。語学的天才たる粟野さんはゴッホの向日葵《ひまわり》にも、ウォルフのリイドにも、乃至《ないし》はヴェルアアランの都会の詩にも頗《すこぶ》る冷淡に出来上っている。こう云う粟野さんに芸術のないのは犬に草のないのも同然であろう。しかし保吉に芸術のないのは驢馬《ろば》に草のないのも同然である。六十何銭かは堀川保吉に精神的|饑渇《きかつ》の苦痛を与えた。けれども粟野|廉太郎《れんたろう》には何の痛痒《つうよう》をも与えないであろう。
「堀川君。」
パイプを啣《くわ》えた粟野さんはいつのまにか保吉の目の前へ来ている。来ているのは格別不思議ではない。が、禿《は》げ上《あが》った額《ひたい》にも、近眼鏡《きんがんきょう》を透《す》かした目にも、短かに刈り込んだ口髭《くちひげ》にも、――多少の誇張を敢てすれば、脂光《やにびか》りに光ったパイプにも、ほとんど女人《にょにん》の嬌羞《きょうしゅう》に近い間《ま》の悪さの見えるのは不思議である。保吉は呆気《あっけ》にとられたなり、しばらくは「御用ですか?」とも何とも言わずに、この処子《しょし》の態《さま》を帯びた老教官の顔を見守っていた。
「堀川君、これは少しですが、……」
粟野さん
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