はてれ隠しに微笑《びしょう》しながら、四《よ》つ折《おり》に折った十円札を出した。
「これはほんの少しですが、東京|行《ゆき》の汽車賃に使って下さい。」
保吉は大いに狼狽《ろうばい》した。ロックフェラアに金を借りることは一再《いっさい》ならず空想している。しかし粟野さんに金を借りることはまだ夢にも見た覚えはない。のみならず咄嗟《とっさ》に思い出したのは今朝《けさ》滔々《とうとう》と粟野さんに売文の悲劇を弁《べん》じたことである。彼はまっ赤《か》になったまま、しどろもどろに言い訣《わけ》をした。
「いや、実は小遣《こづか》いは、――小遣いはないのに違いないんですが、――東京へ行けばどうかなりますし、――第一もう東京へは行《ゆ》かないことにしているんですから。……」
「まあ、取ってお置きなさい。これでも無いよりはましですから。」
「実際必要はないんです。難有《ありがと》うございますが、……」
粟野さんはちょっと当惑《とうわく》そうに啣えていたパイプを離しながら、四つ折の十円札へ目を落した。が、たちまち目を挙げると、もう一度|金縁《きんぶち》の近眼鏡の奥に嬌羞に近い微笑を示した。
「そうですか? じゃまた、――御勉強中失礼でした。」
粟野さんはどちらかと言えば借金を断《ことわ》られた人のように、十円札をポケットへ収めるが早いか、そこそこ辞書《じしょ》や参考書の並んだ書棚《しょだな》の向うへ退却した。あとにはまた力のない、どこかかすかに汗ばんだ沈黙ばかり残っている。保吉はニッケルの時計を出し、そのニッケルの蓋《ふた》の上に映《うつ》った彼自身の顔へ目を注《そそ》いだ。いつも平常心《へいじょうしん》を失ったなと思うと、厭《いや》でも鏡中の彼自身を見るのは十年来の彼の習慣である。もっともニッケルの時計の蓋《ふた》は正確に顔を映すはずはない。小さい円の中の彼の顔は全体に頗《すこぶ》る朦朧《もうろう》とした上、鼻ばかり非常にひろがっている。幸いにそれでも彼の心は次第に落着きを取り戻しはじめた。同時にまた次第に粟野さんの好意を無《む》にした気の毒さを感じはじめた。粟野さんは十円札を返されるよりも、むしろ欣然《きんぜん》と受け取られることを満足に思ったのに違いない。それを突き返したのは失礼である。のみならず、――
保吉はこの「のみならず」の前につむじ風に面するたじろぎを感じた。のみならず窮状を訴えた後《のち》、恩恵を断るのは卑怯《ひきょう》である。義理人情は蹂躙《じゅうりん》しても好《い》い。卑怯者になるだけは避けなければならぬ。しかし金を借りることは、――少くとも金を借りたが最後、二十八日の月給日まで返されないことは確かである。彼は原稿料の前借《ぜんしゃく》などはいくらたまっても平気だった。けれども粟野さんに借りた金を二週間以上返さずにいるのは乞食《こじき》になるよりも不愉快である。……
十分ばかり逡巡《しゅんじゅん》した後、彼は時計をポケットへ収め、ほとんど喧嘩《けんか》を吹っかけるように昂然《こうぜん》と粟野さんの机の側へ行った。粟野さんは今日《きょう》も煙草の缶、灰皿、出席簿、万年糊《まんねんのり》などの整然と並んだ机の前に、パイプの煙を靡《なび》かせたまま、悠々とモリス・ルブランの探偵小説を読み耽《ふけ》っている。が、保吉の来たのを見ると、教科書の質問とでも思ったのか、探偵小説をとざした後、静かに彼の顔へ目を擡《もた》げた。
「粟野さん。さっきのお金を拝借させて下さい。どうもいろいろ考えて見ると、拝借した方が好《い》いようですから。」
保吉は一息にこう言った。粟野さんは何とも返事をせずに立ち上ったように覚えている。しかしどう云う顔をしたか、それは目にもはいらなかったらしい。爾来《じらい》七八年を閲《けみ》した今日《こんにち》、保吉の僅かに覚えているのは大きい粟野さんの右の手の彼の目の前へ出たことだけである。あるいはその手の指の先に(ニコティンは太い第二指の爪を何と云う黄色《きいろ》に染めていたであろう!)四《よ》つ折《おり》に折られた十円札が一枚、それ自身|嬌羞《きょうしゅう》を帯びたように怯《お》ず怯《お》ず差し出されていたことだけである。………
―――――――――――――――――――――――――
保吉は明後日《あさって》の月曜日に必ずこの十円札を粟野さんに返そうと決心した。もう一度念のために繰り返せば、正《まさ》にこの一枚の十円札である。と言うのは他意のある訣《わけ》ではない。前借の見込みも全然絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今、たとえ東京へ出かけたにもせよ、金の出来ないことは明らかである。すると十円を返すためにはこの十円札を保存しなければならぬ。この十円札を保存するためには、――保吉は薄暗い二等客車の隅
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング