十円札
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)初夏《しょか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|行《ゆき》
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(例)[#地から1字上げ](大正十三年八月)
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ある曇った初夏《しょか》の朝、堀川保吉《ほりかわやすきち》は悄然《しょうぜん》とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。
当時の堀川保吉はいつも金に困っていた。英吉利《イギリス》語を教える報酬《ほうしゅう》は僅かに月額六十円である。片手間《かたてま》に書いている小説は「中央公論《ちゅうおうこうろん》」に載った時さえ、九十銭以上になったことはない。もっとも一月《ひとつき》五円の間代《まだい》に一食五十銭の食料の払いはそれだけでも確かに間《ま》に合って行った。のみならず彼の洒落《しゃ》れるよりもむしろ己惚《うぬぼ》れるのを愛していたことは、――少くともその経済的意味を重んじていたことは事実である。しかし本を読まなければならぬ。埃及《エジプト》の煙草《たばこ》も吸わなければならぬ。音楽会の椅子《いす》にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ。友だち以外の女人《にょにん》の顔も、――とにかく一週に一度ずつは必ず東京へ行《ゆ》かなければならぬ。こう云う生活欲に駆《か》られていた彼は勿論原稿料の前借《ぜんしゃく》をしたり、父母兄弟に世話を焼かせたりした。それでもまだ金の足《た》りない時には赤い色硝子《いろガラス》の軒燈《けんとう》を出した、人出入の少い土蔵造《どぞうづく》りの家《うち》へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟とも喧嘩《けんか》をした今は、――いや、今はそれどころではない。この紀元節《きげんせつ》に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。………
保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢《こうたく》の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴《ほうふつ》した。シルク・ハットは円筒《えんとう》の胴に土蔵の窓明りを仄《ほの》めかせている。そのまた胴は窓の外《そと》に咲いた泰山木《たいざんぼく》の花を映《うつ》している。……しかしふと指に触れたズボンの底の六十何銭かはたちまちその夢を打ち壊《こわ》した。今日《きょう》はまだやっと十何日かである。二十八日の月給日に堀川教官殿と書いた西洋封筒《せいようふうとう》を受け取るのにはかれこれ二週間も待たなければならぬ。が、彼の楽しみにしていた東京へ出かける日曜日はもうあしたに迫っている。彼はあしたは長谷《はせ》や大友《おおとも》と晩飯を共にするつもりだった。こちらにないスコットの油画具《あぶらえのぐ》やカンヴァスも仕入《しい》れるつもりだった。フロイライン・メルレンドルフの演奏会へも顔を出すつもりだった。けれども六十何銭かの前には東京|行《ゆき》それ自身さえあきらめなければならぬ。
「明日《あす》よ、ではさようなら」である。
保吉は憂鬱を紛《まぎ》らせるために巻煙草《まきたばこ》を一本|啣《くわ》えようとした。が、手をやったポケットの中には生憎《あいにく》一本も残っていない。彼はいよいよ悪意のある運命の微笑《びしょう》を感じながら、待合室の外に足を止《と》めた物売りの前へ歩み寄った。緑いろの鳥打帽《とりうちぼう》をかぶった、薄い痘痕《あばた》のある物売りはいつもただつまらなそうに、頸《くび》へ吊《つ》った箱の中の新聞だのキャラメルだのを眺めている。これは一介《いっかい》の商人ではない。我々の生命を阻害《そがい》する否定的精神の象徴《しょうちょう》である。保吉はこの物売りの態度に、今日《きょう》も――と言うよりもむしろ今日はじっとしてはいられぬ苛立《いらだ》たしさを感じた。
「朝日《あさひ》をくれ給え。」
「朝日?」
物売りは不相変《あいかわらず》目を伏せたまま、非難するように問い返した。
「新聞ですか? 煙草《たばこ》ですか?」
保吉は眉間《みけん》の震《ふる》えるのを感じた。
「ビイル!」
物売りはさすがに驚いたように保吉の顔へ目を注《そそ》いだ。
「朝日ビイルはありません。」
保吉は溜飲《りゅういん》を下げながら、物売りを後《うし》ろに歩き出した。しかしそこへ買いに来た朝日は、――朝日などはもう吸わずとも好《い》い。忌《いま》いましい物売りを一蹴《いっしゅう》したのはハヴァナを吸ったのよりも愉快である。彼はズボンのポケットの底の六十何銭かも忘れたまま、プラットフォオムの先へ歩いて行った。ちょうどワグラ
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