かならなかったから、もう四五円くれないかと云う掛け合いをはじめた。のみならずいかに断《ことわ》っても、容易に帰るけしきを見せなかった。自分はとうとう落着きを失い、「そんなことを聞いている時間はない。帰って貰おう」と怒鳴《どな》りつけた。青年はまだ不服そうに、「じゃ電車賃だけ下さい。五十銭貰えば好《い》いんです」などと、さもしいことを並べていた。が、その手も利《き》かないのを見ると、手荒に玄関の格子戸《こうしど》をしめ、やっと門外に退散した。自分はこの時こう云う寄附には今後断然応ずまいと思った。
四人の客は五人になった。五人目の客は年の若い仏蘭西《フランス》文学の研究者だった。自分はこの客と入れ違いに、茶の間《ま》の容子《ようす》を窺《うかが》いに行った。するともう支度の出来た伯母は着肥《きぶと》った子供を抱きながら、縁側をあちこち歩いていた。自分は色の悪い多加志の額《ひたい》へ、そっと唇《くちびる》を押しつけて見た。額はかなり火照《ほて》っていた。しおむきもぴくぴく動いていた。「車は?」自分は小声にほかのことを云った。「車? 車はもう来ています」伯母はなぜか他人のように、叮嚀《ていねい》な言葉を使っていた。そこへ着物を更《あらた》めた妻も羽根布団《はねぶとん》やバスケットを運んで来た。「では行って参ります」妻は自分の前へ両手をつき、妙に真面目《まじめ》な声を出した。自分はただ多加志の帽子《ぼうし》を新しいやつに換えてやれと云った。それはつい四五日|前《まえ》、自分の買って来た夏帽子だった。「もう新しいのに換えて置きました」妻はそう答えた後《のち》、箪笥《たんす》の上の鏡を覗《のぞ》き、ちょいと襟もとを掻《か》き合せた。自分は彼等を見送らずに、もう一度二階へ引き返した。
自分は新たに来た客とジョルジュ・サンドの話などをしていた。その時庭木の若葉の間に二つの車の幌《ほろ》が見えた。幌は垣の上にゆらめきながら、たちまち目の前を通り過ぎた。「一体十九世紀の前半の作家はバルザックにしろサンドにしろ、後半の作家よりは偉いですね」客は――自分ははっきり覚えている。客は熱心にこう云っていた。
午後にも客は絶えなかった。自分はやっと日の暮に病院へ出かける時間を得た。曇天はいつか雨になっていた。自分は着物を着換えながら、女中に足駄《あしだ》を出すようにと云った。そこへ大阪のN君が原稿を貰いに顔を出した。N君は泥まみれの長靴《ながぐつ》をはき、外套《がいとう》に雨の痕《あと》を光らせていた。自分は玄関に出迎えたまま、これこれの事情のあったために、何も書けなかったと云う断《ことわ》りを述べた。N君は自分に同情した。「じゃ今度はあきらめます」とも云った。自分は何だかN君の同情を強《し》いたような心もちがした。同時に体《てい》の好《い》い口実に瀕死《ひんし》の子供を使ったような気がした。
N君の帰ったか帰らないのに、伯母も病院から帰って来た。多加志は伯母の話によれば、その後《ご》も二度ばかり乳を吐いた。しかし幸い脳にだけは異状も来ずにいるらしかった。伯母はまだこのほかに看護婦は気立ての善さそうなこと、今夜は病院へ妻の母が泊《とま》りに来てくれることなどを話した。「多加ちゃんがあすこへはいると直《すぐ》に、日曜学校の生徒からだって、花を一束《ひとたば》貰ったでしょう。さあ、お花だけにいやな気がしてね」そんなことも話していた。自分はけさ話をしている内に、歯の欠けたことを思い出した。が、何とも云わなかった。
家を出た時はまっ暗だった。その中に細かい雨が降っていた。自分は門を出ると同時に、日和下駄《ひよりげた》をはいているのに心づいた。しかもその日和下駄は左の前鼻緒《まえばなお》がゆるんでいた。自分は何だかこの鼻緒が切れると、子供の命も終りそうな気がした。しかしはき換えに帰るのはとうてい苛立《いらだ》たしさに堪えなかった。自分は足駄《あしだ》を出さなかった女中の愚《ぐ》を怒《いか》りながら、うっかり下駄《げた》を踏み返さないように、気をつけ気をつけ歩いて行った。
病院へ着いたのは九時過ぎだった。なるほど多加志の病室の外には姫百合《ひめゆり》や撫子《なでしこ》が五六本、洗面器の水に浸《ひた》されていた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸っていたから、顔も見えないほど薄暗かった。そこに妻や妻の母は多加志を中に挟《はさ》んだまま、帯を解かずに横になっていた。多加志は妻の母の腕を枕に、すやすや寝入っているらしかった。妻は自分の来たのを知ると一人だけ布団《ふとん》の上に坐り、小声に「どうも御苦労さま」と云った。妻の母もやはり同じことを云った。それは予期していたよりも、気軽い調子を帯びたものだった。自分は幾分かほっとした気になり、彼等の枕もとに腰を下した。妻は乳
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