を飲ませられぬために、多加志は泣くし、乳は張るし、二重に苦しい思いをすると云った。「とてもゴムの乳っ首くらいじゃ駄目なんですもの。しまいには舌を吸わせましたわ」「今はわたしの乳を飲んでいるんですよ」妻の母は笑いながら、萎《しな》びた乳首《ちくび》を出して見せた。「一生懸命に吸うんでね、こんなにまっ赤になってしまった」自分もいつか笑っていた。「しかし存外好さそうですね。僕はもう今ごろは絶望かと思った」「多加ちゃん? 多加ちゃんはもう大丈夫ですとも。なあに、ただのお腹《なか》下《くだ》しなんですよ。あしたはきっと熱が下《さが》りますよ」「御祖師様《おそしさま》の御利益《ごりやく》ででしょう?」妻は母をひやかした。しかし法華経《ほけきょう》信者の母は妻の言葉も聞えないように、悪い熱をさますつもりか、一生懸命に口を尖《とが》らせ、ふうふう多加志の頭を吹いた。………

       ×          ×          ×

 多加志《たかし》はやっと死なずにすんだ。自分は彼の小康を得た時、入院前後の消息を小品《しょうひん》にしたいと思ったことがある。けれどもうっかりそう云うものを作ると、また病気がぶり返しそうな、迷信じみた心もちがした。そのためにとうとう書かずにしまった。今は多加志も庭木に吊《つ》ったハムモックの中に眠っている。自分は原稿を頼まれたのを機会に、とりあえずこの話を書いて見ることにした。読者にはむしろ迷惑かも知れない。
[#地から1字上げ](大正十二年七月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月8日修正
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