子供の病気
――一游亭に――
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)書の幅《ふく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全然|架空《かくう》の人物

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十二年七月)
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 夏目先生は書の幅《ふく》を見ると、独り語《ごと》のように「旭窓《きょくそう》だね」と云った。落款《らっかん》はなるほど旭窓外史《きょくそうがいし》だった。自分は先生にこう云った。「旭窓は淡窓《たんそう》の孫でしょう。淡窓の子は何と云いましたかしら?」先生は即座に「夢窓《むそう》だろう」と答えた。
 ――すると急に目がさめた。蚊帳《かや》の中には次の間《ま》にともした電燈の光がさしこんでいた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換えているらしかった。子供は勿論《もちろん》泣きつづけていた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはいろうとした。すると妻がこう云った。「いやよ。多加《たか》ちゃん。また病気になっちゃあ」自分は妻に声をかけた。「どうかしたのか?」「ええ、お腹が少し悪いようなんです」この子供は長男に比《くら》べると、何かに病気をし勝ちだった。それだけに不安も感じれば、反対にまた馴《な》れっこのように等閑《とうかん》にする気味もないではなかった。「あした、Sさんに見て頂《いただ》けよ」「ええ、今夜見て頂こうと思ったんですけれども」自分は子供の泣きやんだ後《のち》、もとのようにぐっすり寝入ってしまった。
 翌朝《よくあさ》目をさました時にも、夢のことははっきり覚えていた。淡窓《たんそう》は広瀬淡窓《ひろせたんそう》の気だった。しかし旭窓《きょくそう》だの夢窓《むそう》だのと云うのは全然|架空《かくう》の人物らしかった。そう云えば確《たし》か講釈師に南窓《なんそう》と云うのがあったなどと思った。しかし子供の病気のことは余り心にもかからなかった。それが多少気になり出したのはSさんから帰って来た妻の言葉を聞いた時だった。「やっぱり消化不良ですって。先生も後《のち》ほどいらっしゃいますって」妻は子供を横抱きにしたまま、怒ったようにものを云った。「熱は?」「七度六分ばかり、――ゆうべはちっともなかったんですけれども」自分は二階の書斎へこもり、毎日の仕事にとりかかった。仕事は不相変《あいかわらず》捗《はか》どらなかった。が、それは必ずしも子供の病気のせいばかりではなかった。その中《うち》に、庭木を鳴らしながら、蒸暑《むしあつ》い雨が降り出した。自分は書きかけの小説を前に、何本も敷島《しきしま》へ火を移した。
 Sさんは午前に一度、日の暮に一度|診察《しんさつ》に見えた。日の暮には多加志《たかし》の洗腸《せんちょう》をした。多加志は洗腸されながら、まじまじ電燈の火を眺めていた。洗腸の液はしばらくすると、淡黒《うすぐろ》い粘液《ねんえき》をさらい出した。自分は病を見たように感じた。「どうでしょう? 先生」
「何、大したことはありません。ただ氷を絶やさずに十分頭を冷やして下さい。――ああ、それから余りおあやしにならんように」先生はそう云って帰って行った。
 自分は夜も仕事をつづけ、一時ごろやっと床《とこ》へはいった。その前に後架《こうか》から出て来ると、誰かまっ暗な台所に、こつこつ音をさせているものがあった。「誰?」「わたしだよ」返事をしたのは母の声だった。「何をしているんです?」「氷を壊《こわ》しているんだよ」自分は迂闊《うかつ》を恥《は》じながら、「電燈をつければ好《い》いのに」と云った。「大丈夫だよ。手|探《さぐ》りでも」自分はかまわずに電燈をつけた。細帯一つになった母は無器用《ぶきよう》に金槌《かなづち》を使っていた。その姿は何だか家庭に見るには、余りにみすぼらしい気のするものだった。氷も水に洗われた角には、きらりと電燈の光を反射していた。
 けれども翌朝の多加志の熱は九度よりも少し高いくらいだった。Sさんはまた午前中に見え、ゆうべの洗腸を繰り返した。自分はその手伝いをしながら、きょうは粘液《ねんえき》の少ないようにと思った。しかし便器をぬいてみると、粘液はゆうべよりもずっと多かった。それを見た妻は誰にともなしに、「あんなにあります」と声を挙げた。その声は年の七つも若い女学生になったかと思うくらい、はしたない調子を帯びたものだった。自分は思わずSさんの顔を見た。「疫痢《えきり》ではないでしょうか?」「いや、疫痢じゃありません。疫痢は乳離《ちばな》れをしない内には、――」Sさんは案外落ち着いていた。
 自分はSさんの帰った後《のち》、毎日の仕事にとりかかった。それは「サンデイ毎日」の特別号に載せる小説だった。しかも原稿の締切
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