《しめき》りはあしたの朝に迫っていた。自分は気乗《きのり》のしないのを、無理にペンだけ動かしつづけた。けれども多加志の泣き声はとかく神経にさわり勝ちだった。のみならず多加志が泣きやんだと思うと、今度は二つ年上の比呂志《ひろし》も思い切り、大声に泣き出したりした。
 神経にさわることはそればかりではなかった。午後には見知らない青年が一人、金の工面《くめん》を頼みに来た。「僕は筋肉労働者ですが、C先生から先生に紹介状を貰《もら》いましたから」青年は無骨《ぶこつ》そうにこう云った。自分は現在|蟇口《がまぐち》に二三円しかなかったから、不用の書物を二冊渡し、これを金に換《か》え給えと云った。青年は書物を受け取ると、丹念《たんねん》に奥附《おくづけ》を検《しら》べ出した。「この本は非売品と書いてありますね。非売品でも金になりますか?」自分は情《なさけ》ない心もちになった。が、とにかく売れるはずだと答えた。「そうですか? じゃ失敬します。」青年はただ疑わしそうに、難有《ありがと》うとも何とも云わずに帰って行った。
 Sさんは日の暮にも洗腸をした。今度は粘液もずっと減《へ》っていた。「ああ、今晩は少のうございますね」手洗いの湯をすすめに来た母はほとんど手柄顔《てがらがお》にこう云った。自分も安心をしなかったにしろ、安心に近い寛《くつろ》ぎを感じた。それには粘液の多少のほかにも、多加志の顔色や挙動などのふだんに変らないせいもあったのだった。「あしたは多分熱が下《さが》るでしょう。幸い吐《は》き気《け》も来ないようですから」Sさんは母に答えながら、満足そうに手を洗っていた。
 翌朝《よくあさ》自分の眼をさました時、伯母《おば》はもう次の間《ま》に自分の蚊帳《かや》を畳《たた》んでいた。それが蚊帳の環《かん》を鳴らしながら、「多加ちゃんが」何とか云ったらしかった。まだ頭のぼんやりしていた自分は「多加志が?」と好《い》い加減に問い返した。「多加ちゃんが悪いんだよ。入院させなければならないんだとさ」自分は床《とこ》の上に起き直った。きのうのきょうだけに意外な気がした。「Sさんは?」「先生ももう来ていらっしゃるんだよ、さあさあ、早くお起きなさい」伯母は感情を隠すように、妙にかたくなな顔をしていた。自分はすぐに顔を洗いに行った。不相変《あいかわらず》雲のかぶさった、気色《きしょく》の悪い天気だった。風呂場《ふろば》の手桶《ておけ》には山百合《やまゆり》が二本、無造作《むぞうさ》にただ抛《ほう》りこんであった。何だかその匂《におい》や褐色の花粉がべたべた皮膚《ひふ》にくっつきそうな気がした。
 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪《くぼ》んでいた。今朝《けさ》妻が抱き起そうとすると、頭を仰向《あおむ》けに垂らしたまま、白い物を吐《は》いたとか云うことだった。欠伸《あくび》ばかりしているのもいけないらしかった。自分は急にいじらしい気がした。同時にまた無気味《ぶきみ》な心もちもした。Sさんは子供の枕もとに黙然《もくねん》と敷島《しきしま》を啣《くわ》えていた。それが自分の顔を見ると、「ちとお話したいことがありますから」と云った。自分はSさんを二階に招じ、火のない火鉢をさし挟《はさ》んで坐った。「生命に危険はないと思いますが」Sさんはそう口を切った。多加志はSさんの言葉によれば、すっかり腸胃を壊《こわ》していた。この上はただ二三日の間《あいだ》、断食《だんじき》をさせるほかに仕かたはなかった。「それには入院おさせになった方が便利ではないかと思うんです」自分は多加志の容体《ようだい》はSさんの云っているよりも、ずっと危《あやう》いのではないかと思った。あるいはもう入院させても、手遅れなのではないかとも思った。しかしもとよりそんなことにこだわっているべき場合ではなかった。自分は早速Sさんに入院の運びを願うことにした。「じゃU病院にしましょう。近いだけでも便利ですから」Sさんはすすめられた茶も飲まずに、U病院へ電話をかけに行った。自分はその間に妻を呼び、伯母にも病院へ行って貰うことにした。
 その日は客に会う日だった。客は朝から四人ばかりあった。自分は客と話しながら、入院の支度《したく》を急いでいる妻や伯母を意識していた。すると何か舌の先に、砂粒《すなつぶ》に似たものを感じ出した。自分はこのごろ齲歯《むしば》につめたセメントがとれたのではないかと思った。けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草《たばこ》をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一《ほういつ》の三味線の話などをしていた。
 そこへまた筋肉労働者と称する昨日《きのう》の青年も面会に来た。青年は玄関に立ったまま、昨日貰った二冊の本は一円二十銭にし
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