齠x静まつた時には、既に冷かな星の光が、点々と空に散らばつてゐた。林も今は見廻す限り、ひつそりと夜を封じた儘、枝一つ動かす気色《けしき》もなかつた。二十分、三十分、――退屈な時が過ぎると共に、この暮れ尽した湿地の上には、何処か薄明い春の靄《もや》が、ぼんやり足もとへ這ひ寄り始めた。が、彼等のゐまはりへは、未《いまだ》に一羽も鴫らしい鳥は、現れるけはひが見えなかつた。
「今日はどう致しましたかしら。」
 トルストイ夫人の呟《つぶや》きには、気の毒さうな調子も交つてゐた。
「こんなことは滅多にないのでございますけれども、――」
「奥さん、御聞きなさい。夜鶯が啼いてゐます。」
 トウルゲネフは殊更に、縁のない方面へ話題を移した。
 暗い林の奥からは、実際もう夜鶯が、朗かな声を漂はせて来た。二人は少時《しばらく》黙然《もくねん》と、別々の事を考へながら、ぢつとその声に聞き入つてゐた。……
 すると急に、――トウルゲネフ自身の言葉を借りれば、「しかしこの『急に』がわかるものは、唯猟人ばかりである。」――急に向うの草の中から、紛れやうのない啼き声と共に、一羽の山鴫が舞上つた。山鴫は枝垂《しだ》れた
前へ 次へ
全19ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング