A何処にもないやうな気がするのだつた。せめてトルストイ夫人でもゐてくれたら、――彼は苛立たしい肚《はら》の中に、何度となくかう思つた。が、この客間《ザラ》へはどうしたものか、未《いまだ》に人のはひつて来るけはひさへも見えなかつた。
五分、十分、――トウルゲネフはとうとうたまり兼ねたやうに、新聞を其処へ抛《はふ》り出すと、蹌踉《さうらう》と椅子から立ち上つた。
その時|客間《ザラ》の戸の外には、突然大勢の話し声や靴の音が聞え出した。それが皆先を争ふやうに、どやどや階段を駈け上つて来る――と思ふと次の瞬間には、乱暴に戸が開かれるが早いか、五六人の男女の子供たちが、口々に何かしやべりながら、一度に部屋の中へ飛びこんで来た。
「お父様、ありましたよ。」
先に立つたイリヤは得意さうに、手に下げた物を振つて見せた。
「私が始《はじめ》見つけたのよ。」
母によく似たタテイアナも、弟に負けない声を挙げた。
「落ちる時にひつかかつたのでせう。白楊《はくやう》の枝にぶら下つてゐました。」
最後にかう説明したのは、一番|年嵩《としかさ》のセルゲイだつた。
トルストイは呆気《あつけ》にとられたやう
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