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その間もトウルゲネフは、相手の顔色を窺《うかが》ひながら、少しでも其処に好意が見えれば、すぐに和睦《わぼく》する心算《つもり》だつた。がトルストイはまだ気むづかしさうに、二言三言話した後は、又前のやうに黙々と、郵便物の調べにとりかかつた。トウルゲネフはやむを得ず、手近の椅子を一つ引き寄せると、これもやはり無言の儘、卓《テエブル》の上の新聞を読み始めた。
陰気な客間《ザラ》は少時《しばらく》の間、湯沸《サモワル》のたぎる音の外には、何の物音も聞えなかつた。
「昨夜《ゆうべ》はよく眠られたかね?」
郵便物に眼を通してしまふと、トルストイは何と思つたか、かうトウルゲネフへ声をかけた。
「よく眠られた。」
トウルゲネフは新聞を下した。さうしてもう一度トルストイが、話しかける時を待つてゐた。が、主人は銀の手のついたコツプへ、湯沸《サモワル》の茶を落しながら、それぎり何とも口を利かなかつた。
かう云ふ事が一二度続いた後、トウルゲネフは丁度|昨夜《ゆうべ》のやうに、不機嫌なトルストイの顔を見てゐるのが、だんだん苦しくなり始めた。殊に今朝《けさ》は余人がゐないだけ、一層彼には心のやり場が
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