A――いや、現に彼はトウルゲネフが、山鴫を射落したと云ふ事にも、不相変《あひかはらず》嘘を嗅《か》ぎつけてゐる。……
トウルゲネフは大きな息をしながら、ふと龕《がん》の前に足を止めた。龕の中には大理石の像が、遠い蝋燭の光を受けた、覚束《おぼつか》ない影に浮き出してゐる、――それはリヨフには長兄に当る、ニコライ・トルストイの半身像だつた。思へば彼とも親しかつた、この情愛の厚いニコライが、故人の数にはひつて以来、二十年あまりの日月は、何時の間にか過ぎてしまつた。もしニコライの半分でも、リヨフに他人の感情を思ひやる事が出来たなら、――トウルゲネフは長い間、春の夜の更けるのも知らないやうに、この仄暗《ほのぐら》い龕の中の像へ、寂しさうな眼を注いでゐた。……
翌朝トウルゲネフはやや早めに、特にこの家では食堂に定められた、二階の客間《ザラ》へ出かけて行つた。客間《ザラ》の壁には先祖の肖像画が、何枚も壁に並んでゐる、――その肖像画の一つの下に、トルストイは卓《テエブル》へ向ひながら、郵便物に眼を通してゐた。が、彼の外にはまだ子供たちも、誰一人姿は見せなかつた。
二人の翁《おきな》は挨拶をした
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