ざやか》に浮んで来た。放蕩に放蕩を重ねては、ペテルブルグの彼の家へ、屡《しばしば》眠りに帰つて来た、将校時代のトルストイ、――ネクラゾフの客間の一つに、傲然と彼を眺めながら、ヂオルヂユ・サンドの攻撃に一切を忘れてゐたトルストイ、――スパスコイエの林間に、彼と散歩の足を止めては、夏の雲の美しさに感歎の声を洩らしてゐた、「三人の軽騎兵」時代のトルストイ、――それから最後にはフエツトの家で、二人とも拳《こぶし》を握つた儘、一生の悪罵を相手の顔へ投げつけた時のトルストイ、――それらの追憶のどれを見ても、我執の強いトルストイは、徹頭徹尾他人の中に、真実を認めない人間だつた。常に他人のする事には、虚偽を感ずる人間だつた。これは他人のする事が、何も彼のする事と矛盾してゐる時のみではない。たとひ彼と同じやうに、放蕩をしてゐたものがあつても、彼は彼自身を恕《ゆる》すやうに他人を恕す事が出来なかつた。彼には他人が彼のやうに、夏の雲の美しさを感じてゐると云ふ事すら、すぐに信用は出来ないのである。彼がサンドを憎んだのも、やはり彼女の真実に疑を抱いたからだつた。一時彼がトウルゲネフと、絶交するやうになつたのも
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